アンティーク考

アイヌ その豊かなる民族

挨拶図 アイヌ絵 平沢屏山画(児玉コレクション)/ 市立函館博物館蔵
アイヌの挨拶の様子。一般に儀礼の正座は男性があぐらをかき女性は片膝を立て両手を片膝に回す。


アイヌへのINTRODUCTION


かつて何かでこんな文章を読んだことがある。書いたのはアイヌの女性で、彼女はアイヌの観光地近くの商店の娘さんだったと思う。
ある日ひとりの旅行者がやってきて、道をたずねた後こう聞いたのである。「ところでアイヌはいつ滅んだのですか?」
聞かれた彼女はアイヌである。両親もいれば友達だっている。みんなアイヌである。やがて彼女が生むかもしれない子供だってアイヌである。

現在、一般の日本人のアイヌに対する認識はメチャクチャである。アイヌは滅んだと思い込んでいる人もいれば、アイヌはいまだに萱葺きの家に住み、狩猟生活をしていると思っている人もいる。また、アイヌをいまだに差別視している人だっているし、それとは逆に、異様に神聖化して、神様か天使のように思っている人だっている。この時代錯誤はまるで外国人が日本人はいまだにまげを結って、チャンバラをしていると考えるくらい滑稽なことである。
これも、あるアイヌ女性が話してくれたのだが、彼女がアイヌではない友人と話していた時、その友人がアイヌのことをまるで絵空事のように言うので「じゃあ、アイヌはどうやって生きてきたと思うの?」と聞くと、友人は真顔で「アイヌは稚子のように大自然に抱かれてのんびりと暮らしてきたのよ」と答えたそうだ。

もちろん、このロマンチックな「稚子うんぬん」は友人のオリジナルではない。これは知里幸江という、詩才に秀でつつも19歳で亡くなった少女の有名な詩集の序文の一節である。
「その昔、この広い北海道は、私たち先祖の自由な天地でありました。天真燗漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されて、のんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう」
きれいなフレーズである。詩人が詩としてアイヌをとらえたら、こう表現するのに何の不思議もない。しかしあくまで詩の序文なのである。かつてアイヌは北の大地で狩猟生活をしていた。生きていくためには熊も殺せば、鹿も殺す。山で食糧を見つけるためには、どれが毒か、そうでないか見分ける鋭さもいる。それにアイヌは狩猟民と同時に交易民でもあった。アイヌは北海道を中心に千島列島、アリューシヤン列島、遠くは中国、ロシア、韓国とまで交易しているのである。


チフ(丸木舟) /丸木をくりぬいて作ってある。この舟でどこにだって漕ぎ出した。


アイヌは大昔から丸木で船を作るのが得意だった。遠くに漕ぎ出す時は、これに帆をつけたりもしている。山丹服という色艶やかに刺繍された中国の官服がある。これをアイヌは交易で手に入れ、江戸期、鎖国のまっただ中の日本に送っている。大名たちは大喜びしてもてはやし、これを「蝦夷錦」と呼んでいた。


山丹服(蝦夷錦) /北海道立ウタリ総合センター蔵


明治になるまで日本では、北海道とその周辺のアイヌの住む地を「蝦夷」と呼んだ。だからこの名がついたのだけれど、大名たちはまさかこの華やかな服が中国から渡ってきているとは思っていなかった。だからといって蝦夷で作っているとも考えなかったようである。要は、北の方の遠い国だから、よくわからなかったのだ。

日本が日本という国だけで世界が動いていると錯覚をしていた頃、アイヌは北の荒海に乗り出し、エネルギッシュに交易するほど行動的で商売の駆け引きにも堪能だったのである。
そんなアイヌが稚児のようにただただ自然に抱かれて生きてこられたはずもない。
同じ日本という国に住みながら、昔から今に至るまで、なぜアイヌに関してこうも無知でいられたのだろう?


アイヌはアイヌモシリに住んでいた


北海道には23830人のアイヌが住んでいるという(道の調査1993年)。また、少し古い調査になるが東京都にも約2700人いるらしい(都の調査1989年)。しかし正確な数字はつかめていない。
日本はアイヌに「同化政策」というものを押しつけた。つまり、「アイヌは日本人になれ」ということである。その反面、歴然とアイヌを差別してきた。だから、自分はアイヌだけれど名乗れない人や、親がアイヌであることを知らせずに亡くなって、本人は自分がアイヌであることを知らない人も大勢いるようである。だから、実際はこの数字の何倍もの人口になると考えられる。

ともかくアイヌはアイヌモシリで長い歴史をつちかって生きてきた。アイヌモシリとはアイヌ(人)モ(静か)シリ(大地)、人間の住む静かな大地、今は北海道ということになる。ただし、アイヌは東北地方にも住んでいた。樺太、サハリン、千島列島にも住んでいた。そして本来はそれらすべてがアイヌモシリだった。それを実証するのはアイヌ語の地名である。
アイヌ語地名には、地形をそのまま表すという特徴がある。例えば「シレトコ」は「シリ・エトク」地面の突出部という意味で、これで岬を表す。だから、狩猟民にとってはとてもわかりやすく、生活に密着した表し方で、よく「アイヌ地名には嘘がない」と言われている。

ただしアイヌは、独自の文字を持たなかったために、いつの間にかアイヌモシリの南は日本語化、北はロシア語化して、わからなくなっている。現在、アイヌ地名で一番南まで確認できているのが福島県なのである。
それほどアイヌモシリは広かったのに、アイヌはどうして北海道の一部にしか住んでいないのかというと、プレス機にはさまれたように上下から圧迫されてしまったのだ。

北方領土は日本とロシアの大きな問題で、それはもちろん深刻ではあるけれど、その時になぜアイヌのことが出てこないのだろうといつも不思議になる。
どちらの国が先に足を踏み入れたとか、どちらが先に国旗を翻したかという前に、アイヌはそこにいたのである。
クナシリは「黒い島」、エトロフは「岬の多い島」、ハボマイは「母なる所」、シコタンは「本当の村」とちゃんとアイヌ地名がついている。アイヌは遠い昔から、国境なんて概念に縛られることなく生きてきた。

よくアイヌのことをアイヌ人という言い方をするけれど、アイヌとは「人」という意味である。だから、まるで日本人人と人をよけいにくっつけたような言い方になってしまう。それでもまあ、世間一般でよく使われているのだからアイヌ人という言い方も否定はしないとして、しかしアイヌは今や日本人となったのである。けれど例えば、関西人、東北人みたいな意味でアイヌというのかといえば、それとはちょっと違う。
アイヌはひとつの言語を持った民族なのである。
民族とは祖先が同じという意識を持ち、同じ文化、言語、生活様式を持って、ほぼ同じ地域に住むまとまりのある人間の集団である。アイヌにはれっきとしたアイヌの言葉があって、それはお隣だから日本語ともよく似た単語はあるし、お互い影響し合ったのだろうけれど、根本の文法が違うのである。


①チカラカラペ(ルウンペ) /戯屋留堂蔵
切り伏せ刺繍したあわせの着物。木綿の着物に切り伏せをして、その上に刺繍をした晴れ着ともいえる着物。古いものは縞柄の着物に黒や濃紺の無地の布を切り伏せしてある。木綿が手に入りにくかったため江戸期のものは珍しい。
⓶カパリミプ/戯屋留堂蔵
木綿の一重の着物に白い布を当て、白布を切り抜き下地を出して模様にした着物。くりぬいた縁をかがり縫いし、その上に黒い糸を置いてイカラリというからみ縫いの方法で刺繍してある。
③アットゥシアミプ/戯屋留堂蔵
アイヌの典型的な着物。アットゥシは、おひょうの木(ニレ科の落葉樹)の木の皮をはいで繊維を織ってある。糸を作る時は幾重にも長く伸ばす。普段着はシンプルな無地だが、儀礼用には文様をつけた。
④チヂリ/市立函館博物館蔵 紺や縞の木綿の着物に絹の色糸を使ってチェーンステッチで刺繍をしてある。


全てに魂がやどるそれは物にさえも


イヌは「人」だけれど、その中には実にいろいろな意味が込められていて、その一言だけでアイヌ社会全体のことも指している。またお互いのことも親しみを込めてアイヌと呼ぶし、敬称としても使う。アイヌはひとりであり、みんなということになる。

そんなアイヌに対して存在しているのがカムイである。カムイは日本語に訳すと神様になるのだけれど、一般的に考える神とはずいぶん違っている。
アイヌにとっての伝統的な考え方では、カムイはどこにでもいて、カムイあってのアイヌ、アイヌあってのカムイというくらい密接で、相互関係にさえある。例えば、火、水、月、太陽はもちろん、自然現象の地震やカミナリ、火事、津波、洪水だって、病気でさえもカムイなのである。動物だってクマをはじめキツネ、シマフクロウ、シャチも鮭もししゃもだってカムイで、すべての植物もカムイである。特に毒を含んだトリカブトなんて狩猟に役立つから、すごく位の高いカムイだったりする。他にも舟も家もまたアイヌ自身が作ったまな板、のこぎり、箸にいたるまでみんなカムイなのである。
要はアイヌ(人) に役立つもの、アイヌの力が及ばないものはみんなカムイ(神) なのである。そう考えると、アイヌの世界では森羅万象アイヌかカムイになってしまいそうだ。


イナウ/二風谷アイヌ文化博物館蔵
さまざまなカムイのイナウを祭ったヌサ(祭壇)。通常、家の上窓の外にしつらえてあることが多い。


アイヌといえば、神様のイメージがあって、神という言葉はとてもいい言葉のはずなのに、神様といえば宗教につながって、宗教といえば狂信的とか呪術的とかに発展して、何やらどんよりとしたものを受取ってしまう。けれど、アイヌのカムイは生き生きと明るい神様なのである。
カムイはアイヌの所に来る時はいろいろな力を持っているが、いざカムイの国へ帰ると妻や夫、子供や親までいて、人間と同じ暮らしをしている。

そしてカムイにもすごく良いカムイ、ちょっと良いカムイ、ちょっと悪いカムイにすごく悪いカムイと分かれていて、時にはやきもちをやいたり、失恋したり、いじわるしたりするのもいる。おまけにカムイは、偉いのから偉くないのまで位があるのだ。この位はいかに人間に役に立っているかで決まって、結構人間くさいのである。

アイヌはそんな神様がさまざまな物に姿を変えてやってくると考えている。
例えば、熊のカムイである。アイヌは熊狩りをする時「撃ちにいく」とはいわずに「受け取りにいく」、または「迎えにいく」という。熊はカムイの国からその肉体を持ってアイヌの所にくるお客様なのである。このありがたいお客様は毛皮や肉をいっぱい持ってきてくれるのである。
アイヌの方もせっかく来てくれたことに感謝して、イナウやお酒、タバコやお菓子をお土産に差し上げてカムイの国へ帰ってもらう。イナウとは神様がもっとも喜んでくれるお土産である。木を削ってくるくるした薄い木片をいくつもくっつけたままにして、房のような、ハタキのようなものを作って捧げるのである。
このお土産ばかりは神様、カムイでも作ることができない。カムイの国に着く頃には、もらった量が何倍、何十倍にも増える力まである。帰りついた熊のカムイはこのお土産でパーティーを開くのだが、品数も多く、立派なものを贈られたカムイほど地位は上がるのである。
こうして熊の肉体をいただいて魂を神の国へ送ることをイヨマンテ(熊送り) という。
この時、同時に歌や踊りもお見せする。男たちが輪になって天に向かって剣を振りかざし、女たちは歌いながら踊る勇壮で楽しいものである。


アイヌ民族博物館の野外ステージで踊るイヨマンテの踊り


ユーカラ(民話) も聞いてもらう。熊のカムイはこの酒宴がおもしろければ、また毛皮と肉をいっぱい持ってやってきてくれる。おもしろいのはユーカラを演じる時で、ストーリーが「これからクライマックスに入るゾ」とワクワクするところでいきなり話をやめる。
熊のカムイはお土産もいっぱいもらったし、酒宴も楽しかったから喜んで帰るけれど、どうしてもあのユーカラの続きが聞きたいと、居ても立ってもいられなくなり、またお土産を持ってやってきてくれる。

熊のカムイは動物の神様の中でもとても位の高い神様だから、イヨマンテも派手に行われる。これが小さな生き物の場合、歌や踊りはなく、お土産も少なくなってしまう。ただし、同じようにちゃんとカムイの国へ送り返すのである。
また、物の場合もほとんど同じで、その物はアイヌの国での役割が終わったと考える。
「長い間、働いてくれてありがとうございました。お土産を持ってカムイの国に帰ってください。カムイの国であなたは一段位の高い神として遇されるでしょう」
物は神の国に帰るとまた新しい命が宿り、蘇るのである。この物送りはイワクテという。
おまけに、動物や物のように、目に見えるカムイだけでなく、生活全般を見守ってくれる神様だっている。

このカムイに対しては感謝を込めてお祈りし、そしてやはりイナウやお酒などを捧げるのである。お酒を捧げる時はイクパスイ(トゥキパスイともいう) というヘラのようなものを使う。これは神様とアイヌをつなぐ大切な道具で、トゥキ(酒器)に入ったお酒をはしっこにつけてピッピとまくのである。
アイヌの祈りを受けたカムイは、それに答える必要がある。「幸福」を祈られたら幸を与え「安全」を祈られたらそれも守ってやらなければいけない。
しかし、アイヌが真剣に、礼節をもってお願いしたのに、聞き入れてくれないこともある。そんな時、アイヌは神様に向かって平気で文句をいうのである。
「こんなに礼を尽くしてお願いしたのに、あなたは神の品位を傷つけた」とか「神の位が下がる」とか「神の仲間からはずされるゾ!」と、まるでケンカ腰なのである。

例えば川で溺れるなどの変死者が出たとなると、ウニウェンテという儀式を行う。ウ(互いに) ニウェン(猛る)テ(させる)は「お互いに夢中になって腹を立てる」という意味である。この時には抗議するというよりも川の神様を叱り飛ばすのである。
「あなたが油断していたから、こんな犠牲者が出た」
アイヌは神に絶対的な力を望んで、ただ「お恵みください」といっているわけではない。神と対等に共存しているのである。だから時には「この願いを聞いてくれないなら、あなたは神なんかじゃないからね」と、ほとんどカムイを脅迫するのである。

ただし、アイヌが神様にお願いするのは「必要な分だけ」である。アイヌの根底にある思いはいつもこの「必要な分だけ」なのかもしれない。幸福や安全といった感情面、状況面だけでなく、実生活の物質的な、木を切る、食べる、飲むなどすべてが「必要な分だけ」を享受する。
だから、狩猟、漁労生活をしつつ、自然体系を壊さずにいられたのだろう。それは今のリサイクルとか、自然保護とはかなり違う、もっと自然そのものの中にいて、必要な分はあるがままに受け入れ、生きるための強さと優しさと冷徹さをも混在させたアイヌの自然への思いなのだろう。
こう考えると、カムイというのは、ほとんど自然そのものといっていい。これだけ自然の中に生きて、実はアイヌの中には自然という言葉が見つからない。アイヌにとって自然はあえて言葉にする必要もないほど密着した当たり前の存在なのだろう。


トゥキパスイ/戯屋留堂蔵
力ムイとアイヌをつなぐトゥキパスイは特に凝った彫りがほどこされている。また、神様へのお使いだから悪霊が忍び込まないといわれ、具体的なクマなどの動物、家や船なども立体的に表しているものもある。また、男たちの家系を表すシロシ(家紋のようなもの) が彫ってあるものもある。


アイヌは白人だった?


そんなアイヌの起源であるが、昔から実にいろいろな説があった。起源といったって、地球上の民族で確かなことがわかっている民族なんてない。
もちろん日本人だってそうである。有力な説というのがあるにすぎない。
アイヌの場合、この説の数々を羅列すると、「コーカソイド(白人)説」、「モンゴロイド説」、「太洋州人種説」、「古アジア民族説」、「人種の孤島説」。それぞれ太古に思いを馳せ、ロマンをかきたてられるが、中でも一時有力とされた「コーカソイド説」はおもしろい。
つまりアイヌは白人だったというのである。

これを利用したのがヒットラーである。第一次大戦に大敗したドイツは、今度こそはと極東アジアに目を向けて、国粋主義まっただ中の日本と手を組んだ。それに独裁政権ムッソリーニのいるイタリアである。そして1940年に誕生したのが日独伊三国軍事同盟である。
この時ドイツの首脳陣も国民も日本を加えることに異を唱えた。それはそうだろう。ドイツ国民以外はみんなウスノロだと、かたやユダヤ人は強制収容所に入れている最中である。それなのに「黄色人種を仲間に入れるなんてとんでもない」ということになってきた。この時、ヒットラーは答えたのである。
「日本のルーツは白人である。なぜならアイヌが白人だからである。アイヌはロシアから渡った白人なのである。だから日本人は白人と考えてよい」
すさまじいほどの三段論法だが、ヒットラーにしてみれば、知ったことではない。「このアイヌの老人の写真を見たまえ。何と、かのトルストイとそっくりではないか」と言ったとか、言わないとか、真実のほどは定かではないけれど、確かにもじゃもじゃの白いひげをたくわえて考え深げな彫りの深い老人の顔は、トルストイと似てなくもない。


アイヌのエ力シ(長老) /アイヌ民族博物館白いヒゲをたっぷりとたくわえた老人の風貌は哲学的である。


今では「モンゴロイド説」が有力視されている。古モンゴロイドには北方系と南方系の2つのタイプがあって、もともと日本列島には南方系がやってきて住んでいた。そのど真ん中に入ってきたのが北方系で、南方系は影響を受けるか、混じるかした。けれど、入ってきたのが列島の真ん中だったから影響を受けなかったもともとの南方系が北と南に分かれてアイヌと琉球の文化を作ったという。

エムシ(刀)/ 戯屋留堂蔵
刀身は日本からの交易品だが、鞘はアイヌの男たちの彫刻が生かされている。戦いに使うのではなく、イヨマンテなどの祭礼に用いられた。

熊の手の小物入れ/陸別町教育委員会蔵
陸別の開拓に入った関寛斎が地元のアイヌから贈られたもの。クマの脚が入れ物となっており、上顎骨の一部が根付けになっている。中間には目貫として貝殻が付けられている。

カロブ(小物入れ)/帯広百年記念館
クマは神様のくれる最も役に立つプレゼントである。これはクマの皮製の小物入れ。
主に火打ち用具を入れた。

トゥキパスイとトゥキ(杯)/戯屋留堂蔵


アイヌの歴史をひもといてみれば


れが先史時代といわれる縄文の頃である。その昔、8000年とか1万年という気が遠くなるほどの昔のことだ。日本列島は縄文文化の時代だった。人々は狩猟をし、土を焼いて縄の文様をつけていた。そこに入ってきたのが弥生文化である。弥生文化は稲作と一緒にやってきた。稲作をするには、集合して定住し収穫が伴うから、やがてそこに権力が生まれ、中央集権の社会が生まれる。それを嫌って相変わらず狩猟生活をしたかったのか、それとも寒冷地で稲作をしようにもできなかったのか、はたまた縄文人というのが弥生人にかわったのではなく、まったく別の人種でソリが合わなかったのか、ともかく今の北海道を中心に北の方では縄文文化がそのまま残ったのである。これを続縄文文化と呼んだりもする。

その後、近畿や九州を中心に弥生文化は栄え、そして卑弥呼が邪馬台国の女王となる古墳時代を経て、聖徳太子が憲法17条を制定する飛鳥時代に入り、やがて奈良時代を迎えるのだが、北の方はやっぱり縄文のついた土器をせっせと作る文化のままだった。
しかし、この頃北の方に擦文文化という土器文化がおこるのである。擦文土器とは、表面にハケ目のような擦り痕があってこの名前になった。

そしてほぼ時を同じくして、もっと北のオホーツクの方にはオホーツク文化という海獣狩猟や漁労の文化がおこっているのである。この両方の文化が終る頃にアイヌ文化が始まった。
だからアイヌ文化は縄文が擦文に変わり、それにオホーツクの文化がミックスされて始まったようなのである。
しかし、ここで時代のミステリーが出てきて、擦文文化というのは土器の文化だったはずなのにアイヌの文化には土器の習慣が消えているのである。けれど、アイヌ文化には擦文とオホーツクの両方に共通点がいっぱいあって、もう何が何だか…ともかくその位遠い昔からアイヌの歴史は始まっているのである。



アイヌに文字がなかったということ


「アイヌには歴史がない」と言われてきた。それはアイヌが文字を持たないからである。
つまり「アイヌ史」という書き物がないのである。しかし、だからといって、歴史がないとはあまりに短絡的すぎる。歴史というのは、その文化のたどってきた道であって、記録そのものではない。考えてみると、長い世界の歴史の中で、オリジナルの文字を持った文明というとエジプト、中国、マヤくらいのもので、他の文字はそれらの応用なのである。かくいう日本語の文字にしても漢字が変化したものだ。

現代では文字がすっかり日常化して慣れてしまっているけど、これはもしかしたら便利なようでいて記憶能力とか五感を鈍らせているのかもしれない。
アイヌには文字の代わりに口承文化が発達した。これがユーカラという英雄の話やカムイユーカラという神々の話、それにウェペケレという昔話である。
これらは地域によってさまざまな呼ばれ方をしているが、歌ったり語ったりして今に伝わっているのである。伝える側は、よりわかりやすく正確にするために正しい言葉を使い、聞く側は感性を研ぎすます。
狩猟民であり、口承文化を持ったアイヌはことさら文字を必要としなかったのだろう。

けれど、アイヌがまったく文字を知らなかったわけではない。あれほど広く交易していたのだから、実際には読み書きできる人間もいた。
アイヌに文字がないことの理由のひとつにはアイヌに文字を持たれてはマズイと考える支配者の存在があったからだろう。支配しようとする側は被支配側がお利口になられては困るのである。アイヌを支配しようとし続けた日本はアイヌに文字を覚えてほしくなかった。


蝦夷とアイヌ


アイヌ文化がおこった頃から北海道を中心とする北の地域を日本では蝦夷と呼んでいたけれど、もっと古くは「えみし」「えびす」とも言っていた。この両方とも、もともとは異民族に対する呼び方で、「化外の民」とか「まつろわぬ人々」、つまり「言うことを聞かないヤツら」という意味なのだが、これが蝦夷に対して使われたのは、大和朝廷が成立した時、この地域の人々が同化しなかったからである。蝦夷という呼び方をするようになったのは平安時代からといわれ、これが明治の初めまで使われ続けた。

けれど、この蝦夷がアイヌと同一なのかというと、そこがなかなか難しいところで、当時大和朝廷に刃向かっていた集団は結構いっぱいいたのである。それをみんなひっくるめて蝦夷といった。極端にいうと関東から北は蝦夷だったわけで、だから「江戸は蝦夷からきている」なんて聞いたこともがある。
蝦夷がみんなアイヌかもしれないし、蝦夷の一部がアイヌで、他は滅んだか、同化されたのだろう。そしてそれはいつの間にか今の北海道を意味する言葉となった。
大和朝廷から現在に至るまでの中央政権とその民を日本という言い方をするのはかなり無理がある。アイヌにしても、江戸期までれっきとした独立国だった琉球にしても、今は日本なのである。

アイヌは昔から日本のことを「シサム」といっていた。
それは「自分たちの隣人」という意味だけれど、そのうち「シサム」があんまりひどいことばかりするので、少々蔑視の意味を込めて「シャモ」とも呼んだ。他にも「和人」という言い方もあるが、ここでは無理を承知で日本、または日本人といっている。その日本人が蝦夷に攻め入ったのは古代から幾度もあって日本書紀や古事記にも出てきている。

蝦夷はかなり強かったらしい。600年頃に蘇我蝦夷という人がいた。中大兄皇子、つまり天智天皇に殺された蘇我入鹿のお父さんだが彼の名前は蝦夷である。
彼はアイヌに関係なく「オレは強いんだ」と誇示や虚勢でこの名前をつけたようである。


アイヌモシリに日本人がやってきた


とにかく日本はアイヌモシリに何度も来て戦って、その結果、どんどん交易の量は多くなっていった。取り引きで得るものはアイヌにとって珍しいものばかりだった。
特に好みだったのが、漆塗りである。木があんなにつるつると美しく輝いているのである。アイヌはずっと日本に侵略され続け、搾取され、屈従を強いられてきたので忍従していたイメージだけれど、本来は明るくて、珍しがり屋である。
だから漆を見た時は驚き喜んだ。

あんなに木彫りや刺繍がうまいのだから、漆の技術を身につければいいと思うのだが、そんなことは一向にしない。交易で手に入る物は、それに越したことはないと、自分たちはせっせと狩猟をして、交換し続けたのである。それはやはり、アイヌモシリの天然資源が豊かだったからに違いない。漆で特に気に入ったのがシントコである。シントコとは、日本でいう行器(ほかい)のことである。行器が頻繁に使われ始めたのは鎌倉、室町の頃だが、古くは平安初期からあるという。形は円筒形だが、角形に作られたものもあって、それに脚をつけ、太いひもをつけて天秤棒で担いだ。食べ物を入れたり、旅行の必需品を納めたものである。漆を塗ってある他に、精巧なものは蒔絵をほどこしてある。直径60cm、高さは約1m近いものもあって、かなり存在感がある。時には敵を討ちとった時の首桶にも使われ、また能や歌舞伎観劇の腰かけがわりもしたというのだから、その大きさがわかるだろう。


シントコ(行器) /幕別町蝦夷文化考古館蔵
シントコはアイヌの家宝で豊の象徴である。アイヌは漆の技術を持たなかったから、これらはすべて日本から交易で手に入れた。アイヌのチセ(家)の東にある宝壇に所狭しと並んでいる。


日本ではこんな使われ方をした行器を、アイヌは宝物にした。アイヌの萱葺きのチセ(家) はだいたいワンルームで、外から見るよりずいぶん広いけれど、その東の奥が神聖な場所とされていて、宝壇になっている。そこにこのシントコを良いものから順に置いているのである。裕福な人たちはこれを何個も持っていて、それらを「これでもか」と並べる。日本で行器は大名などの持ち物で、だいたい紋が入っている。しかしアイヌにとっては関係ない。こんなに大きいもの、じゃまになると思うのだが、大切に磨きあげている。この宝壇には、他にも漆塗りの鉢や杯、刃や矢筒なども並び、イナウもいっしょに置かれている。

しかし不思議なのは、いかに自分たちで作れない漆塗りであろうと、日本から得たものを宝物にしていることである。それも大昔から大正、昭和の初めまで、その間、アイヌに対して日本側はひどいことばかりをしているのである。だから「日本のものなどを見るのも嫌」と思うだろう。けれど、アイヌにとって作り主が誰かなど問題ではないのだろう。この世にあるものはすべて使命を帯びて、自分の所にやってきたのである。


コシャマインの戦い


さて、戦いのためにやってきた日本人は、やがてアイヌモシリにわがもの顔で住みつき始めた。そしてどんどん横柄になってきたのである。


マキリ(小刀)/ 市立函館博物館蔵
これひとつで彫りの何もかもをこなす優れものの万能刃。この刃のせいでアイヌ最初の蜂起コシャマイン戦争が起った。

イカヨプ(矢筒)/ アイヌ民族博物館蔵
狩猟に必携の矢を入れる矢筒は木や竹で丁寧に作られている。儀式用もあるが、実際に使うものには、マキリ(小刀)やトゥキパスイ、矢じり、矢の柄の中央部分などが取り付けられるものもある。


1457年、日本で応仁の乱のおこる少し前のことだ。ひとりのアイヌの青年が日本人の鍛冶屋にマキリの刃を注文した。マキリとは小刀のことで、アイヌにとっては一番大切な道具といっていい。昔はこれ1本で何にでも使える万能刃だったのである。アイヌの男の大切な仕事である木彫りに使うのはもちろん、山に入れば木の枝も落とすし、木の皮もはぐ。草も刈れば、根も掘り出す。鳥も射止めるし、調理にも使う。熊だってしとめたし、その解体もした。柄にも鞘にも彫刻がしてあって、いつも肌身離さず身につけている。

そんな大切なマキリの刃を注文して仕上がったのは、ナマクラで使えたものではなかった。
アイヌは昔からマキリの刃を日本人に頼っている。アイヌに鉄の技術はあったのに、鋼はほとんど作らなかった。鋼とは鉄に炭素を加えたものである。炭素が増すと強くなるので、鍛冶屋は火で真っ赤に焼いて、トンテンカン、トンテンカンとしばしも休まず打ち続け、炭素の量を増やすのである。
ナマクラ刃を渡された青年と鍛冶屋の間でケンカが始まった。そしてとうとう鍛冶屋は青年を殺してしまったのである。
誰もこのケンカがこんなに大きくなるとは思わなかっただろう。しかし、日本人に対してくすぶっていた不満は一挙に爆発した。これがアイヌの最初の蜂起「コシャマイン戦争」の発端である。コシャマインとはこの戦いの長だった男の名前である。

戦いは3カ月に及ぶ壮絶なものだった。
領土という日本側の言い方をすれば、当時、北海道南部の日本領を治めていたのは安東政季で、そこに転がり込んできたのが武田信広という、信玄の武田家の血を引くといわれる男である。
日本軍はこの武田信広が総大将になって戦ったけれど、各所から落ち延びてきたり、寄せ集めてきた兵ばかりで強くはなかった。
一方、コシャマインの方は各コタン(村)から一斉に集めてきた武者だったのである。戦いはどう見てもアイヌ軍の方が優勢だった。
日本軍は北海道の西端の渡島半島の、そのまた南端に館という陣地が12カ所あったけれど、その10カ所まで陥落したのである。しかし、落ち延びてきた人というのは、幾多の辛苦をなめてきているから、策略謀略はお手のものだった。
和睦が成立した。確かに日本軍は降伏した。だからアイヌは、疑うことなく意気揚々と引き上げたのである。日本軍はそれを後方から攻めた。

コシャマインの息子が殺され、何人ものコタンの長が死に、そしてついにコシャマインも殺された。
「野蛮なるアイヌの大酋長を武田信広は一刀両断にし」と記録にあるけれど、これは日本側の記録である。文字を持った日本軍はいくらでも改ざんできる。何だかアメリカンインディアンが悪者にされたのと似ている。

ともかく、コシャマインの戦いが終わってもアイヌと日本の小競り合いは鎮静したわけではない。
日本はちょうど戦国時代に突入したばかりである。日本中のあちこちが戦いにあけくれ、朝廷の力は衰退し、下克上はおこる。北条、今川、伊達、武田に織田など、武士の力がどんどん強まり、血に餓えたような時代だった。それでもアイヌは知らん顔で、日本とも近隣の諸国とも変わらずに交易していた。いかに日本軍がアイヌモシリに入ってこようとも、西の端の方をうろうろしているに過ぎない。アイヌモシリはどこまでも広い。北はオホーツク、日本海、南は太平洋、海は果てしなく広がっているのである。


戦国時代とアイヌ


戦国時代に終止符を打ち、一応日本を平定した天下人、秀吉が関白になったのが1585年のことである。
コシャマインの戦いの後、信広は武田から蛎崎に改名していた。彼の子孫は5代目になっていて、蛎崎慶広といった。秀吉は彼に蝦夷地を治める朱印状を渡した。朱印状といったって、秀吉が勝手に書いて、印を押した文書だから、アイヌの知ったことではないのだが、蛎崎慶広はこれで「アイヌモシリは手中に納めた」と思い込んだ。そしてそのまま時は流れ、今度は家康が権力の座についた。ここで蛎崎慶広は松前と名前を改め、1万石の大名となったのである。
ここに幕府の体制にガッシリと組み込まれた松前藩が誕生したのである。この時、家康は慶広にアイヌ交易の独占権を与えたのである。慶広はついに「アイヌモシリは完全にオレのもの」と決めてしまったのである。

しかし慶広にも悩みはあった。当時、北海道では一粒の米もとれなかったのである。江戸時代の大名の権威は石高で決まった。お米のとれ高である。家来たちにはその年貢を知行、つまり給料として与えていたのである。松前藩は1万石とはいうものの、それは単に形だけである。そこで慶広が考えたのが各地の交易権と、そこで上がる利益を家来に与えることだった。アイヌモシリの各地に「商場」といわれる日本の建物が建ち、日本の商人たちはアイヌの物産や蝦夷以北のアイヌが交易してきた物を買いたければ、松前藩を通すしかなく、自由市場だった港は松前藩の役人が監視した。
それまでも横暴だったこの侵略者たちはますます幅をきかせて威張るようになった。アイヌは日増しに窮屈な生活に陥り、不平不満はふつふつとたまっている。


シャクシャインの戦い


1669年、アイヌと日本の最大の戦争「シャクシャインの戦い」がおこった。
事の起こりはアイヌ同士の領地問題の小競り合いから端を発した。
舞台は現在の日高地方で、20年もの間もめていて、互いに殺し合いまで発展し、そのたびに松前藩が調停に入っていた。

ある時ついに門別の長が殺されて、またも調停を頼もうと松前藩に救護を求めにいった。しかし、この帰り道、使者が殺されてしてしまった。
立ち上がったのは静内の大将、シャクシャインである。
「今、アイヌ同士で争う時ではない。このままでは松前藩にアイヌは皆殺しにされる。全アイヌよ、立ち上がれ」
コシャマインの戦いの時と違って、今度は日本側にはバックに強力な徳川幕府がいる。事実松前藩はすぐに幕府に報告し、幕府は近隣の藩に軍事援助を命じたのである。

アイヌ軍だって決死の覚悟である。アイヌモシリの各地からアイヌはかけつけ参戦した。だからこの戦いもアイヌ軍の優勢は火を見るよりも明らかだったのである。
しかし、またも謀略が勝利した。
秋も深まり、両軍が互いに疲弊し始めた頃、松前藩は和睦を申し入れたのである。けれど、これも偽りの和平工作だった。
祝の席に盛装して出かけたのがシャクシャインの最期である。
この暗殺は細かに計算されていた。暗殺者を待機させる物音を消すために、女たちに砧を打たせたとか、逃げ道をふさぐためにふすまは鋲が打ってあったとか、しかし、勝てば官軍ということだろう。

総大将を失ったアイヌ軍はたちまち壊滅し、この敗戦によってアイヌはますますの服従を余儀なくされ、武器と名のつくものはすべて取り上げられてしまった。
今も昔もお役人様たちのやることである。支配し、搾取はするが、アイヌの細かな生活にまで立ち入ってくることはない。だからアイヌはアイヌらしく彼らの風習を守り、けっこう明るい生活を送っていた。
あの広いアイヌモシリで生涯一度も日本の役人に出逢わない人だって大勢いたはずである。
現在、耳にするユーカラなどのテープの声はほとんど老人が歌い、話していて、それはそれで味はあっても、物悲しさがつきまとう。しかし、これはテープという近代機器ができた時、すでにこれらの伝統を受け継いでいる人たちが高齢だったからである。

その昔は血気盛んな若者たちも朗々と歌い上げていた。自然の中で育ったアイヌである。その声も大きかっただろう。笑い声なんて、山にこだまして、隣のコタンまで聞こえそうだ。イヨマンテなどの儀式で振り上げる剣は青空と緑に映え、キラキラと輝いていただろう。


日本との儀式ウイマムとオムシャ


ウイマム図絵馬 平沢屏山画/市立函館図書館蔵


この江戸期にはアイヌと松前藩の間に2つの儀式があった。「ウイマム」と「オムシャ」という。「ウイマム」というのは、各地のアイヌの長が松前候に謁見する儀式で、年に1度くらい行われた。語源は日本語の「初見え」から変化した。
「オムシャ」の方の語源はアイヌ語である。アイヌ語で挨拶をウムサといい、これが変化して「オムシャ」になった。オムシャもウイマムと同じようにアイヌの長が松前の役人に逢いにいくのだが、これは会場が商場や会所だから、村人たちも物見遊山で見物にいった。

これらの様子は「アイヌ絵」と呼ばれる絵画から知ることができる。アイヌ絵は「アイヌ風俗画」ともいわれるが、アイヌのことを描いたすべての絵というわけではなく、18~19世紀の半ばまでに日本人がアイヌの生活、風俗、そして文化を描いたものを特定している。
アイヌ絵画家の代表的な存在として、平沢屏山という酒飲みの風変わりな男がいた。彼はアイヌの生活の中に入り込み、生き生きとしたアイヌを描き出している。

ここで、もうひとつアイヌの特徴としてあげられるのが、彼らは絵という文化も持たなかったことである。ただし、アイヌには模様というすばらしい文化がある。アイヌの女性の仕事のひとつに刺繍があって、着物の縁飾りや首飾りはもちろん、テクンペ(手甲) やホシ(脚絆)、マンタリ(前掛け)、何にでも刺繍を施す。特に、彼氏のためにする刺繍は見事に華やかで、手が込み、それが愛情表現で、教養の価値基準になったりする。子供の頃から母や祖母に教わり、アオペイ(いろり) の灰や土に描くことが遊びであり、勉強でもあった。アイヌの模様は自然の草木や波などを幾何学的に表したものが多く、それにまじないや厄除けなど、さまざまな意味が込められている。

マンタリ(刺繍が施された前掛け) /戯屋留堂蔵

上2つ マタンプシ(鉢巻き)/芽室教育委員会蔵
下 レクトゥンペ(のど飾り)/ アイヌ民族博物館蔵


アイヌのものは全般に縁どるとか囲うことが多い。衣服の縁飾りなどはその典型で、模様を枠にすることで、そこから魔が入り込めないと考えているのである。
例えば、畑仕事などをする時、子供を傍らに寝かせておく。この時、縄やひもで子供の周囲を囲っておくと子供には魔の手が伸びることなく、安らかに眠っていられるのである。この縄やひもを編むのもアイヌにとって多くの意味が込められている。荷物をになうタラ(縄) は実用的で丈夫で長もちをモットーに編むけれど、他にハラムリリという死体を包むひもなどは必ず編んでおき、その時のために用意してある。

また、ひもといえば、女の人が必ず身につけていたラウンクッというひもがある。お守りのようなもので、代々女から女へと編み方が受け継がれた。日本でいう家紋の役割も果たした。


縄やひも/戯屋留堂蔵
アイヌには多岐に渡る縄やひもの編み方がある。これらは日常でも使われるが、死装束にも用いられる。


この編み方が同じ家系同士は婚姻ができないというが、これは近親結婚を防ぐためだろう。
男が作る模様は彫刻である。マキリ(小刀)やトゥキパスイをはじめタンパクオプ(タバコ入れ)、イタ(お盆)、ヘラや箸にいたるまで何にでも彫刻したのである。これも波や渦巻きなどを模したものが多い。ただし、動物や人形、物を描くことはほとんどない。具体的なものは悪霊になりやすく、それが人間を害するという思いがあるのだ。具体的なものを表すのはトゥキパスイなどの祭礼に使う道具だけで、これはカムイとの間のお使い役みたいな存在だから大丈夫なのである。


オムシャ図 平沢屏山画/イギリス ・国立スコットランド博物館蔵


ともかく、「ウイマム」と「オムシャ」である。長たちが手をつなぎ、腰をかがめて歩いている。一見へいこらした姿に見えるけれど、描いたのは日本人画家である。アイヌ絵は日本人に売るためにわざとアイヌを卑屈に描き、買う側の優越感を刺激した。アイヌの生活に溶け込んだといわれる平沢屏山にしてもそうである。だから、どうもこの姿は誇張が入りすぎている気がする。

それにしてもアイヌの着物の何とあでやかなことか。ある人は前記の中国からの蝦夷錦、またある人は日本との交易で得た陣羽織姿である。陣羽織は武士たちにとっては戦いの衣装だけれど、アイヌにとっては美しい刺繍のされた晴れ着だった。いくら松前の役人が威張っていようともアイヌは交易相手で、生活の糧である。権力を誇示したところで立場は対等なのだ。だからアイヌの長たちにとっては派手に盛装して「商売相手のお隣さんにご挨拶」くらいの気持ちだったのかもしれない。

一方、オムシャの方である。アイヌ絵では偉そうな役人が宴幕をはった高座にいる。アイヌの長はシントコやタバコなどの贈り物をはさんで花ござに平伏している。そして入口には村人たちが群がっている。

チタラペ(文様入りござ)/ アイヌ民族博物館蔵


たしかにその図には上下関係が見えるが、アイヌが敷いているのは花ござである。花ござは宗教儀式など正式な場で床や壁の装飾品として使われるものである。がまを織って、その間に染め色をつけたり、おひょうを編み込んで幾何学文様を作るのである。だから、アイヌはお白州のように座らされているわけではなく、礼を尽くした敷き布の上に座っているのである。それに上にいるはずの役人たちは黒か紺の紋付き袴で堅苦しく地味なのに対し、下にいるアイヌはウイマムの時と同じく、赤、黄、緑、青と色彩を取り混ぜた服装である。
何だか今でも役所などでよく見る光景のような気がする。紺色の背広を着た役人とカウンターをはさんで自由業の男や女が好き勝手な服装で交渉している。カウンターのむこうとこちらは別世界のようである。

当時、アイヌは搾取されていた。無理難題も押しつけられていた。港にも自由に立ち入ることができなかったしり、時には藩の都合で労働にも駆り出されていた。それでもアイヌは自由人だったのである。
アイヌは派手好きで、それは衣装だけにとどまらず、装飾品を見てもよくわかる。アイヌの男女はともに今でいうピアスをしていた。耳の穴は子供の時に開けて、ニンカリという耳飾りをして、それをつけない時は穴がふさがらないようにと赤い布を裂いてさしていた。その赤色は、おひょうの木の繊維で織ったべージュ色のアットウシという着物によく似合った。アットウシには縁どりをしてあるものもあり、その紺色はさえざえと美しかった。

女たちは儀式、祭礼ではとりどりの宝物を身につけて着飾った。首飾りはタマサイといい玉の多くはガラス製で、それは遠くシルクロードから渡ってきたものや、ガラス玉などが贅沢品だった日本から手に入れたものである。それにレクトゥンペというチョーカーみたいなものもあった。マタンブシは鉢巻きで、手の込んだ刺繍がされていて、これは男も身につけることがあった。また、腕にはテクンペという腕輪をつけたりもした。
また、女性は口のまわりと手の甲に入れ墨をする習慣があった。人によるけれど、だいたい12~16歳くらいまでに2~3回にわけて完成させた。これは、切れのよいマキリ(小刀)で細かな傷をつけ、そこに白樺の皮を燃やして作った炭を塗り込む。この入れ墨で一人前として認められた。これがないと「あの世」にも行けなかったそうだ。

美の感じ方というのは、時代や場所、人によってさまざまだけれど、赤い唇のまわりを大きく縁どった藍色の入れ墨はアイヌにとってあでやかなものだったのだろう。こうしてアイヌは松前藩によって多々に窮屈な思いをしつつも、自分たちの暮らしを守り、まだまだ誇り高く暮らしていたのである。


タマサイ(首飾り)/ 左 萱野茂二風谷アイヌ資料館蔵 右 戯屋留堂蔵
この首飾りがいつの頃からあるのかはわかっていないが、代々女性たちの間で伝えられてきた。時に、これらのガラス玉の中にはシルクロードを渡ってきたとても古い貴重な玉も発見できるという。真ん中に金属製の飾りがあるものはシトキという。

ニンカリ(耳飾り)/戯屋留堂蔵
アイヌは昔から男女ともにピアスを開けていた。子供が5~6歳になると母か祖母が開ける。ニンカリは真鍮、鉛、銀などでできていて、これをつけない時は赤い布を裂いてつけていた。


日本の商人が実権を握った


それが急変したのは1720年、江戸期の中頃のことである。松前藩の役人たちが商場から手を引き、商人たちに交易を依存してしまったのである。これを「場所請負制」という。これで藩は何の面倒もなく、商人たちから税金を吸い上げればよいだけ、後は商人が何をしようと知らぬ存ぜぬの立場になったわけである。
不利な条件ではあったけれど、それまでは仮にも藩の役人たちとの直接交渉が可能だったアイヌは、単に不当な低賃金で働かされるだけの存在になった。

さらに悪いことには、シャクシャインの戦いで苦戦を強いられたという汚点を残した松前藩は、徹底的な秘密主義をとるようになったのである。
こうなればもう搾取する側の天下である。商人たちのすべてが悪いのではない。アイヌのために心をくだいた商人だっていたはずである。しかし、秘密のべールに覆われて、その中ではやりたい放題、お金はどんどん入ってくる。ましてや相手は言葉のわからない人種である。
そしていつの間にか感覚を麻痺させ、悪に染まっていくものなのかもしれない。

また、この頃になると、北前船などの発達で日本中の特に関西あたりの商人の船が盛んに北海道にやってきた。
これらの船は、今までは松前港にだけ出入りしていたが、直接北海道各地の港に入ってくるようになった。商人の目の前にはお金になりそうな物がころがっている。そして、より多くの利益を得るためには技術革新もした。そこで生み出したのが塩漬けで魚を貯蔵する方法である。
鮭やマスは次々に塩に漬けられ出荷された。それまでアイヌは決して必要以上の乱獲をしていなかった。アイヌはかなりなグルメで、いろいろな物を食べていた。山菜、木の実、クマや鹿、鳥類の肉、そして魚。中でも主食は鮭だった。鮭は雪解けとともに一斉に川に上ってくる。はるか昔からの計算なのか知恵なのか、自然形態が壊れるような獲り方はしなかった。

イクラをいっぱいはらんでやってくる鮭は、その日食べる分しか獲らなかった。鮭は上流に上り、卵を生み、そこで一生を終る。アイヌはそれを獲って冬の保存用にするのである。それが自然の摂理なのだろう。
その鮭の皮でアイヌは靴も作った。鮭の皮で作った靴は、雪道を歩く時、鱗が滑り止めになって転ばなかった。鮭の皮の靴は、時に犬がいたずらをして食べてしまうこともあったけれど、丈夫で暖かいのである。アイヌはマレクという漁具を使って一匹一匹ていねいに鮭をとり、その度カムイにお礼をいったものである。そこに日本人は網を張れというのである。上ってくる鮭はおもしろいように獲れるけれど、上流にたどりつく鮭は悲しいくらい減ってしまう。


マレク(突き鈎)/アイヌ民族博物館蔵
古くから用いられているこの魚突きの道 具はメ力ニックにできていて、魚を突くと刃がくるりと半回転して魚をつかむようになっている

チェフケリ(鮭皮製靴) /帯広百年記念館蔵
アイヌの主食である鮭は、食用だけでなく、靴にも服にもなる。皮は丈夫で破れにくいのである。


また、鰯が米の肥料に適していることがわかると、今度は鰯を大量に獲った。決して食べられることはなく、田んぼにまかれるだけの鰯は飛ぶように売れた。

病気になったアイヌを治療しようともしない。人夫は使い捨てである。夫婦は引き裂かれ、夫は強制労働に送られ、妻は日本人の餌食になった。
工藤平助が蝦夷の状況を書き記した「赤蝦夷風説考」を出したのはそんな最中の1783年である。ロシアから交易を求める船が蝦夷に来始めた頃である。幕府はやっと重い腰をあげた。しかし、幕府が気にかけたのはアイヌではなく、ロシアの進出だった。その頃、幕府は蝦夷の向こうはまったく何もない、だから防衛も必要ない人跡未踏の地のように思っていた。
しかし、ロシアは確実に南下し、北の島々を制覇しようとしていた。幕府は大慌てで調査団を蝦夷の地へ送った。

彼らが見たのはあまりにも無謀備な北の海と虐げられているアイヌだった。
松前藩が何とか秘密に事を運ぼうとするのを尻目に、調査団は本気でさまざまな改革をしようとしたのである。
しかし、彼らは役人である。幕府の意向の中で動くことしかできない。政治や経済が調査団の行く手を阻んだのである。改革は中途半端で頓挫し、松前藩とその息のかかった商人はますますアイヌを締め付けにかかった。


最後の蜂起とその後


そして起こった武装蜂起が「クナシリ・メナシ戦争」である。1789年、まず国後島で若いアイヌが立ち上がり、メナシ(根室) 地方のアイヌが続いた。彼らは運上屋を襲い、番人を殺害した。しかし、若い指導者にシャクシャインやコマシャインのような組織力はなく、この蜂起は長老たちの説得で、松前軍が出陣する前に終りを告げたのである。
長老たちはこの時、松前藩との仲介をし、和解したはずだった。けれど、71人の日本人が殺されたのである。松前藩が彼らを許すはずもなく、北海道の東端ノッカマップで37人を処刑したのである。こうして108人の命を奪い、最後の抵抗も空しく終ったアイヌの道はもはや忍従しか残っていなかった。

翌年、幕府は松前藩から領地を取り上げ、東蝦夷を直轄にし、次には西蝦夷を直轄にした。ついには日露通好条約などというものが結ばれ、アイヌだらけの島々をアイヌの意思などお構いなしに分断したのである。
アイヌはそのあずかり知らぬ一方的な政策に翻弄され、そしてやっぱり忍従してきたのである。
それでも百歩譲って、江戸時代はよかったのである。少なくともアイヌはアイヌとして存在し、アイヌとして生きていたのである。

時代が明治に変った時、アイヌモシリには北海道という名前がつけられた。そしてアイヌには役人が勝手に日本人の名前をつけた。アイヌは日本人にされてしまった。
廃藩置県が行われた明治4年、アイヌは急に日本の「平民」として戸籍に登録され、またその7年後、今度はいきなり「旧土人」という扱いにされてしまった。
アイヌはアイヌとして一番大切な尊厳を奪い取られたのである。アイヌ語は禁止、しゃべれるはずもない日本語をしゃべれと強要された。アイヌの風習はすべて奪われる。入れ墨なんてもっての他である。そんな野蛮なものはみっともない。当然ピアスも禁止である。


入れ墨をした手/ アイヌ民族博物館蔵
アイヌの手の入れ墨はコロポックルの伝説から始まったという説がある, コロポックルは恥ずかしがり屋で、アイヌにいろいろプレゼントをするのにいつも身を隠していた。コロポックルの正体を知りたい青年が食べ物を差し入れるコロポックルの手を引き寄せるとその手は青い文様があって、それ以来アイヌの女性も入れ墨をするようになった。

入れ墨をした少女/ アイヌ民族博物館蔵
赤い唇のまわりの入れ墨は白い肌に映えてとても美しかったという。

右 オッカヨクワ(男の墓標)と左メノコクワ(女の墓標)/ アイヌ民族博物館蔵
墓標は死者がこれを杖にして神の国へと導かれてゆくものだと信じられていた。男の墓標は槍を、女の墓標は針をかたどっている。上の方を丸く削り、黒い布を通し、針に黒い糸が通っている形になっている。

左 ライクルテクンペ(死者用手甲) /市立函館博物館蔵
右 ライクルケリ(死者用靴)/アイヌ民族博物館蔵
死への旅立ちに日常使っていたほとんどのものを持たせて送りだした。これらは死装束として特別に作られ、完全に仕上げないままに、人目につかないようにこっそり置いておく。完成させると魂が入り、死人が出ると考えられていたからである。


アイヌは人が死んだら日頃使っていた生活用具を、そのまま暮らしていた家とともに燃すことがあった。特にひとり暮らしの女性が死んだ時などには、生活道具を残らず持たせるためにすべてを家の中に入れて焼くのである。これはあの世に行ってもこのまま暮らしができるからというアイヌらしい思いなのである。だが、これも禁止である。
人は誰しもそうだけれど、死は生に結びついて、それぞれの死の世界観はその人の生き方をも左右する。アイヌには死後の独特の世界観がある。それを如実に表すのが葬儀である。
アイヌはその生と死をも否定されたのである。

そして今度は土地である。日本からどんどん開拓民を移住させ始めた。自然の宝庫だったアイヌモシリは次々に開拓され、のっぺらな田畑に変っていく。
その政策を年代順に上げてみる。

1869年(明治2年) アイヌモシリに北海道と名がついた時、「山林荒芭地払下規則」。これで本州の地価の3分の1~7分の1で移民に払い下げや賃貸を開始した。
1872年(明治5年)「北海道土地売貸規則」ができて、土地の取得者には10年の免税をしてひとり10万坪を払い下げた。
1877年(明治10年)「北海道地券発行条例」でアイヌの住居地までも正式にお国の土地にされてしまう。これでもう、ほとんど条件のよい土地は開拓民に払い下げてしまった。残りの山林は国有化となった。
さらに1897年(明治30年)「北海道国有未開地処分法」で150万坪を限度として開墾した土地を無償で与えた。
ここまでは、本当の住人であるアイヌのことは全く何も関係なしに事が進められた。

そこで1899年(明治32年)になって、やっと「アイヌにもちょっと与えねば」と考えて生まれたのが「北海道旧土人保護法」だった。
この人をばかにしたような法律で決められたのは1戸につき1万5千坪をアイヌに与えるというものである。1万5千坪といえば広いかもしれないが、いきなりやってきた開拓民にはひとりにつき10万坪なのである。しかもアイヌに与えたのは、開拓民に与えつくした後の、開墾すらできていない山の傾斜地や、1本の木を切るのも大変な山奥の山林地だったのである。
おまけにそれは10年のうちに開墾しないなら取り上げるし、勝手に人に譲ってもいけないという条件付きなのである。

土地を奪われたアイヌは生活手段を失い、それでも仕方なく、追いやられた辺ぴな土地で狩猟し、川で魚をとっていた。
けれどアイヌの居住地までもとりあげた「北海道国有未開地処分法」のできる1年前(明治29年) には、アイヌの伝統だった仕掛け弓猟という狩猟法が禁止され、使ったこともない猟銃を渡されたのである。
そして10年後、アイヌの食料分として残されていた鹿猟が全面禁止となった。実はこの時、蝦夷鹿は、絶滅寸前になっていた。
千歳には鹿肉の缶詰工場ができていたのである。現金収入を求めた開拓民たちが乱獲したからだった。

川の方といえば1878年(明治11年)に千歳川に鮭のふ化場ができたのをかわきりに、次々に人工のふ化場をつくり鮭漁禁止になっていった。
きのうまで主食だった鮭を、日本の役人がやって来て「今日から鮭をとったらしょっぴくぞ」と言ったわけである。アイヌには何のことやらわからない。鮭はみんなのものである。みんなのものをみんながとって何が悪い。
アイヌがあたり前のこととして山で鹿を捕えれば「密猟」、川で鮭をとれば「密漁」、薪をひろいに山に入れば「盗伐」として逮捕されていったのである。


しかしアイヌは滅ばない。


日本の開拓民が悪いわけではないのだろう。彼らだって新しい生活のために、それまでのすべてをなげうってやって来たのである。そして必死に働いて生きてきたのである。
ただ日本という国のやり方が、あまりにずさんで雑だった。あまりに高慢で人の心を知らなすぎた。

信じられないことだけれど、「旧土人保護法」という名称がなくなったのは、たった22年前、平成9年のことなのである。
差別や偏見の中で必死に努力した人たちの力である。「アイヌは滅びゆく文化」といわれもした。けれど今、アイヌ語はまた語られはじめている。
アイヌ語講座もあちこちで開かれ、その文化も見直されてきた。

アイヌはアットウシという着物をつくるためにおひょうの木の皮を剥ぐ時、木が裸になる程剥ぎ取りはしない。皮をすっかり剥いでしまえば、木は枯れてしまうのだ。だから木の周囲の4分の1くらいずつ剥いで、残りの皮が風で飛ばされないように、剥ぎ取った皮の一部で帯を締めておく。そして「立ち木の神様、あなたの着物の一部をいただきました。あなたは神であるから、自分の力で衣を再生してください。衣を頂いたお礼にこれを差し上げます」とお礼をいって少しのお供えを置くのである。するとおひょうはまた、枝葉を繁らせスックと立つのである。


中村


(上記の文章を書いてから、約20年が過ぎました。今、校正を入れていると、この文章を書いた時のことがありありと思いだされます。本当にいろいろな方にお世話になりました。特に二風谷アイヌ文化博物館に伺い、いきなり取材を申し込んだにもかかわらず、快諾くださりご協力くださった萱野茂先生のことが忘れられません。萱野茂先生は2006年に永眠されたとのこと。先生が言葉を発するたびに上下した長いまつげが印象的でした。先生のご冥福をお祈りいたします。)


撮影協力 戯屋留堂
■ 協力■ 平取町立二風谷アイヌ文化博物館
■ 写真提供 協力■ (財) アイヌ文化振興・研究推進機構
■資料提供■ 市立函館博物館/市立函館図書館/北海道立ウタリ総合センター/二風谷町立アイヌ文化博物館/陸別町教育委員会/帯広百年記念館/アイヌ民族博物館/幕別町蝦夷文化考古館/芽室教育委員会/イギリス・国立スコットランド博物館/萱野茂二風谷アイヌ資料館

★ キャプションは「アイヌの民具」萱野茂、すずさわ書店と「アイヌの四季と生活~ 十勝アイヌと絵師・平沢屏山」、(財)アイヌ文化振興・研究推進機構から数カ所引用、または転用させて頂いております。


【参考文献】
● 「アイヌの四季と生活~十勝アイヌと絵師・平沢屏山」、(財)アイヌ文化振興・研究推進機構● 「芸術新潮1999年7月号」新潮社、● 「アイヌ神謡集」知里幸惠・編訳、岩波文庫● 「アイヌ民族を理解するために」北海道環境生活部総務課アイヌ施策推進室● 「風雲児たち11巻」みなもと太郎、潮出版社● 「アイヌ民族」本多勝一、朝日新聞社● 「日本史年表・地図」児玉幸多・編、吉川弘文館● 「世界史年表・地図」亀井高孝、他・編、吉川弘文館● 「足もとのと『民族』をこそ」本多勝一、朝日新聞社● 「日本の美術354号『 アイヌ環境』の工芸』」佐々木利和、至文堂● 「カムイユーカラ」山本多助、平凡社● 「妻は借りもの」萱野茂、北海道新聞社● 「アイヌの昔話」萱野茂、平凡社● 「アイヌ学の夜明け」梅原猛、藤村久和・編、小学館● 「早わかり日本史」河合敦・著、日本実業出版社● 「図録・民具入門事典」宮本馨太郎、柏書房● 「道具が語る生活史」小泉和子、朝日新聞社● 「アイヌの婚姻」瀬川清子・著、未來社、● 「アイヌの碑」萱野茂、朝日文庫● 「アイヌの里二風谷に生きて」萱野茂・著、北海道新聞社● 「知っていますか?アイヌ民族一問一答」上村英明・著、解放出版社● 「アイヌ文化の基礎知識」アイヌ民族博物館・監修、草風館● 「アイヌの民具」萱野茂、すずさわ書店● 「聞き書 アイヌの食事」日本の食生活全集48 ・萩中美枝他、(社)農村漁村文化協会● 「アイヌの美 装い 土佐林コレクションの世界」(財) アイヌ文化振興・研究推進機構●「ひも」額田厳、法政大学出版局● 「むかしの道具考現学」小林泰彦、風媒社


浮世絵 訓縫 現如上人北海道巡錫絵図
一陽斎写(広重三代) 甘泉堂版
明治三年東本願寺による布教版画