エミール・ガレ

「野草に幼虫文エナメル彩大鉢」高さ:21cm

世紀末の申し子ガレ

100年に一度、必ず世紀末はやってくる。文明が進んで、人はとても賢くなり、かつて人々を恐怖に陥れた終末論など本気で信じる人はほとんどいなくなったけれど、それでも何か世の中がざわめいて、変な事件が起こったりびっくりするような思想が流布されたりする。
世紀末になると人は、どうにか消化してきた100年という月日の中で、目には見えないけれど出来上がろうとしている何かの形を、ぶち壊してしまいたくなるのかもしれない。

今から100年ちょっと前の世紀末、ヨーロッパではアールヌーボーという芸術運動が湧き起こった。ヨーロッパの、それまでの伝統的な芸術に反発し、もっと違う新しい芸術を起こそうという運動である。これは或る意味でのぶち壊しだった。
それまでのヨーロッパの芸術には、堅苦しい様式があった
遠近法である。
遠くのものは小さく、近くのものは大きく。物体や空間を目に見えたとおり平面上に表現する方法である。これはルネサンス時代に発明された。近いものを中心に線を引き、図面を体系化して表す。だから絵画はまるで数学の方程式のように綿密に計算されていた。しかしどう考えても、そんなに秩序だった自然は存在しない。
アールヌーボーは、その遠近法からの解放だった。
そこで注目されたのが、ジャポニズム、つまり日本の芸術である。
遠近法も何もなく、うねうねと曲がる茎や葉っぱの曲線や庶民や遊女を描く下描きのない奔放さ。
もちろん日本にも遠近法はある。けれどそれは感覚を重視する遠近法である。例えば北斎、富嶽百景に見るような、樽の中から見えたり、おぼれそうな小舟の向こうにある富士山。その極端さのなんと自然なことか。
日本のアートは、自由にあふれているのである。
この自由こそアールヌーボーの理想だった。

そしてアールヌーボーの先鋒にたったのが美術工芸家エミール・ガレである。
なんて書き方をすると、何だかエミール・ガレはものすごい思想家で、革命家で、まるでジャンヌダルクのように戦いの先陣に立ったみたいだけれど、そんなことはない。エミール・ガレは、ただガラスを作り、陶器を焼き、家具を作った美術工芸家なのである。
アンティークをほとんど知らなくても、ほんの少し興味のある人ならエミール・ガレは知っている。ましてやアンティーク好きともなればエミール・ガレは、当たり前のようにまるで昔からの友達みたいな気安さで話題にのぼったりもする。
ちょっとお金のあるガラス好きならエミール・ガレの一本位持っているし、西洋骨董といえばまずはガレと決め込んでいる人だっている。
「ガラスを知るにはガレさえわかれば後は何も必要が無い」なんて極端なことを言っているのだって聞いたことがある。
エミール・ガレは、こんなにも有名でこんなにも人気がある。

ガレの生涯生産高

パリから東へ300kmのロレーヌ地方、その首都ナンシーの小さな通りで毎朝花市が開かれていた。華やかで、可憐で、危うい花たちが集められては、各家や商店に散ってゆく。その通りに面した一室のガラス窓に額をくっつけ、目を輝かせ、飽きずに眺めている少年がいた。幼いエミール・ガレである。
光をゆがめ揺らめかせるガラスのむこうに見える花々は、彼の目に自然の不思議を焼きつけた。そして同時に、流通という不思議をも見せていた。
エミール・ガレが生涯を通じて世に送り出した作品は2,000とか3,000といわれていたり、また、20,000とか30,000という説もある。
しかしどこにも正確な記録は残っていない。
おや?と、ここで首をかしげたくなる。相手はガラスであり陶器であり家具である。そんなに多くの作品を、たった一人が一生涯でつくれるものだろうか?

それよりももっとおや?と思う。
反対に2,000とか3,000とか、あるいは20,000とか30,000にしたって、そのくらいの作品なら世界中に散らばったら、たいした数じゃない。
それなのにガレは世界中のいたる所でゴロゴロあったりする。
100年以上もたって、遠く離れた日本の、ちょっとしたアンティーク屋に入ってもガレの1本や2本置いてあって手に取ってみることもできるし、買って帰って自分の物にさえできる。
ほとんど同時代に生きたピカソにしたって、生涯ものすごく精力的に仕事をして、数多くの作品を残したというけれどほとんど美術館でしかお目にかかれないし、ミュシャにしたって、版画の作品をいっぱい残していて、それなんかきっといくらでも刷れたはずなのに、やはりかなり希少価値である。
それなのにガレの作品は結構どこにでもあったりする。
だからここで誤解を恐れずに云ってみよう。「この世の中にエミール・ガレ自身が作った作品なんて、ほとんどないのである」

「パピルスとスカラベ文花瓶」高さ:29cm

エミール・ガレ作なんて無い?

こんなことを書いてしまうと、きっと非難轟々だろうからちょっと言い方を変えてみよう。
「エミール・ガレの作品は全て工房作品である」
まあ、これもかなりの極論ではあるけれど、実はガレは、職人としての腕はあまりなかったようなのである。例えばガラス職人としてのガレを考えてみても、彼は20歳位の時マイゼンタールのビュルグン・シュヴェーラ社という所でエナメル絵付けとグラビールというガラス彫りの方法を一年ばかり修業しているにすぎない。確かにガレは天才だけれど、どんな天才にしても、1年やそこらでマルケトリーやパチネ、スフレやアプリカシオン、カボッシオンなんて、舌をかみそうな、ちょっと硬くなった頭ではとうてい憶えられない技術を駆使して、作品を作りだすなんて不可能なのである。

では、ガレオリジナルというのは嘘なのか。
サインまであるじゃないかといわれそうである。そこで、またまた誤解を恐れずにいってみよう。
美術館に飾られて、エミール・ガレと記されている作品だって、1本何千万円もする作品だって、みんな工房作品なのである。
オリジナルなんて言うと、デザインはもちろん、製作工程から仕上げまで、みんなガレ自身が手がけて、サインまで入れちゃってと錯覚しがちだけれど、本当はみんなガレの下にいる工房の技術者達の分業なのである。
ガレは要するに天才的親方さんなのである。
ガレは芸術家である。ガレは思想家で、植物学者で、そしてすばらしく目はしのきく商売人なのである。これをみんなひっくるめて、彼は希に見る天才的プロデューサーなのである。
ガレは優秀な技術者をずいぶんたくさん抱えていた。常時100人位はいて、多い時には300人を超えていた。
彫るだけの人、焼くだけの人、研磨するだけの人、仕上げだけの人、それぞれがそれぞれの分野でピカ一の腕前だった。
その中にはすごいひらめきを持った画家もいた。
ビクトル・プルーベという人がその筆頭である。彼はガレの生涯において片腕のような存在だった。
彼等画家達は下絵を描いた。その下絵の構図の中には、ガレのサインが入っていた。
ガレのサインがとてつもなく種類が多い事は有名で、それは作品のデザインを壊すことなくデザインそのものに融合させた結果である。
ということは当然サインだって、下絵を描く画家が生み出した物となる。ガレ自身だって、たまに気が向いたりひらめいたりして、デザインしたかもしれないが、そんな区別、どうがんばってもつけようがない。どれにだって「ガレ」のサインが入っているのだから。

ここでちょっと話はそれるが、サインのことが出てきたついでに、ガレのサインの年代の信憑性について触れてみよう。
時々「これには、このサインが入っているから何年の作品です」なんて説明を聞く事がある。しかしこれでは説明不足なのである。
ちゃんと言うとすれば「このサインが入っているから、これは何年に考案されました」でなければ正確ではない。
考案された年、これは確かに存在する。しかしガレは、モデルつまり見本品を世に発表して、その後何年たっていようと、そのモデルの注文がくると「よしきた」とばかりに製作しているのである。そしてたいてい同じサインを入れさせた。困るのは「たいてい」という所である。違うサインも入れさせた。だからオリジナルと一般的に言われている素晴らしい作品だって、世の中に何本もあって、同じ作品で年代がバラバラだったりサインが違っていたりと、つかみどころがない。
特に日本では、オリジナル、第2工房、第3工房と区別するけれど、ガレの自国フランスでは、ほとんどそういう区別はない。ただ時に、ガレの生前、又は戦前と戦後(第一次)という分け方をするくらいである。

エミール・ガレの本領発揮

エミール・ガレが、アールヌーボーの巨匠と言われて脚光を浴びるのは、1889年のパリ博の時である。1889年、と聞けば歴史に詳しい人ならば気がつくだろう。あのバスチーユの牢獄をパリ市民が襲撃し、政治犯を救おうと立ちあがったフランス革命から、ちょうど100年目なのである。
パリは革命100年目の行事が開催され、その中で華々しく「パリ博」が開かれたのである。さすがはガレ「パリ博」は何度もあったけれど、ちょうど革命100年祭に合わせる所など憎い演出である。

この時、彼は世間をあっと言わせるような作品の数々を展示するのだが、実はその11年前の1878 年の「パリ博」でもかなりの数の作品を出品し、金賞を受賞している。この時の作品の中にはジャポニズムの北斎の版画そのままの「鯉が泳ぐ花器」もあったけれど、おしなべて統一性がないのである。
つまり彼はジャポニズムであろうと、シノワズリであろうと、ロココであろうと、何でもかんでもの美術様式を駆使して、ガラス、陶器、家具と全ての手持ちの駒を羅列し、世間の反応を伺ったのである。
そして「ジャポニズムのガラスがいける」とこの大天才はひらめいたのだった。
「今はガラスだ。ジャポニズムだ。あのからくさ模様のようにくねくねと、朝顔のつるのように螺旋を描き、とんぼが舞うがごとくはかなげに、松の葉先の揺れることく繊細に…」
そしてガレは、全力をあげてガラスづくりをせよと工房全体に号令をかけたのである。もちろん陶器も家具も製造を中止したわけではないが、この時期の彼のガラスに対する熱意にはすごいものがあった。彼はあらゆる技術を投入し、可能な限りの薬品を混ぜ、金属腐食させ、金銀をはさみ込み、やがては「ガラスを使って出せない宝石の色はない」とまで豪語し、そして、かの透明に美しい薄青色の“月光色” を生み出したのである。

天才プロデューサーガレ

こうして「ガラスの練金術師」と異名を取るまでになったガレではあるけれど、当時こんな試みを模索しているのは当然ガレだけではない。ドームだっているしパリにはウェジーヌ・ルソー、ブラック・モンなんて名人がいて、あの「あこがれのジャポニズム」の作品を次々に世に出している。この頃ルソーは中国の乾隆ガラスにヒントを得た美しい多層色被せガラスを手がけて人気を博していた。
天才というのは、時にかなりひがみっぽい。きっとそれは、自分が「できるヤツ」だから自分こそ一番だと思いたいのだろう。

「肖像写真と自筆書簡」

ガレはこのルソーの作品に対して「ガラスというのは、光を通す透明の物であるべきだ」などと、まるでルソーが生み出すガラスを邪道のように批判し、芸術の先駆者らしからぬ、子供じみた嫉妬を表したりしている。
けれどそんなガレ自身だって、後になったら多種多様な被せガラスを作るのである。しかしその当時はまだ自分が手がけてないものだからついついケチなことを言いたくなったのだろう。

エミール・ガレはすばらしいプロデューサーで、アーチストで、自然を愛する植物学者だった。また、瞑想にぶける詩人だったり、科学者だったり、愛あふれる神聖な信者であった。ある時は愛国心に燃え、20代半ばで普仏戦争が始まると、ただちに義勇軍に入隊した。またある時は、正義の使者のように当時ユダヤ問題も絡んで難局に立たされていたドレフェス大尉(フランス陸軍参謀本部勤務の大尉であったユダヤ人のアルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された冤罪事件)に全面的に肩入れし、多く友人と決別したりしている。

また、ロレーヌ十字というのをガレはサインによく使っているのだけれど、これは、イエスキリストが処刑された十字に木を組み合わせたもので、ユダヤ人の王イエスを意味し、ロレーヌ地方の象徴のようなものだった。これを使うことによって、ガレはプロシアの占領下にあったロレーヌの独立と誇りを表し続けたのである。

このように人格的にもなかなかたいしたものだと感心するガレではあるけれども反面かなり依枯地で意地悪な面も持っている。
特にジェラシーに関してはいろんな逸話もあって、後の話になるけれど、手塩にかけたガラス職人ミューラー兄弟がめでたく出世して「兄弟でがんばります」と工房を作って出てゆくと、彼等をどろぼう呼ばわりした。
まあ、このどろぼう呼ばわりも、ガレだけを責めるわけにはいかない点はある。当時のガラスの技術といえば、みんな少しでも新しい発見があれば鵜の目鷹の目でさぐりあっていた。いわば今のコンピューター技術の競い合いのようなものである。
だから秘密主義は当たり前で、紀元前に途絶えたままになっていたパート・ド・ヴェールという、ガラスを粉にしてまた固めた古代ガラスの技法など、フランスのアンリ・クロという人が再発見したものの、絶対誰にも教えなかった。だから有名なアージー・ルソーやアルマック・ワルターがいろいろパート・ド・ヴェールで作品を残しているのはクロの作品をためつすがめつ眺めては分析し、やっとさぐりあてたという経緯がある。

ジャポニズムが欲しい

話がそれてしまったので元にもどそう。
とにかくガレは精根かたむけてガラス作りに励んでいたのである。けれど肝心のジャポニズムが今ひとつうまくいかない。それはナンシーという土地柄に原因している。実はナンシーという都市、パリとすこぶる仲が悪い。
それにはいろいろ歴史的な背景があるのだけど、ともかく犬猿の仲なのである。
こんなに通信網が発達した今なら何を秘密にしたって、情報などすぐさま流れてしまうけれど、時は1800年代の終り、やっと鉄道が都市間を結びはじめたばかりである。
パリでは日本からの美術品が豊富にあって、日本から送られてくる陶器の包み紙まで版画が使ってあったりして、ジャポニズムが巾をきかせているのに、ナンシーではその資料すら手に入り難い。ガレはきっと地だんだ踏んでくやしがったけれどそこは天才のプライドで「ねえねえ、ちょっと見せてくださいよ」なんて手もみをするわけにもいかない。

もともとガレがジャポニズムに触れたのはパリである。
1867年ガレがまだ20歳を少しすぎた頃、父で陶芸家だったシャルル・ガレの代理人として「パリ博」に参加したのである。
この時彼ははじめてヨーロッパに登場した日本の展示物に出逢ったのである。

「家具の彫刻用 モチー フ

高島北海という男

「あのモチーフが欲しい」そう渇望するガレに、いきなりふってわいたように現れたのが高島北海という男である。本名高島得三、当年とって35歳。ガレより4つ若い。北海は日本政府より派遣され森林学修得のためにナンシーの森林学校にやって来たのである。ガレをはじめとするナンシーの芸術家達は喜んだり驚いたりそれは大変な歓迎ぶりである。何しろこの日本人は森林学校の留学生でありながら画家の腕前を持っているのである。

そしてインテリである。礼節正しく、また流暢なフランス語まであやつる。彼等が何より感嘆したのは、北海が日本画という基礎をふまえて、すらすらと手品のような手さばきで、軽やかにしなやかに、かのくねくねの葉や茎や花、憧れの富士山をいとも簡単に目前に繰り広げてくれたことである。
ヨーロッパでは当たり前の下絵すら、この日本人は描かないのである。このイマジネーションのすばらしさ。ガレはこの時、北海から「日本植物名集」という本を借りたという記録が残されている。また、何度か彼を訪ねては「菊の国のおはなし」を聞いていたようである。それに、ガレと同じく植物学に造詣の深い北海は、日本から朝顔や藤の種を持ち込み、これがナンシーの植物園に植えられた。あの切望していたジャポネの花々が実際に手に取ることができたのである。

北海がナンシーを去ったのはフランス革命100年祭の「パリ博」の前年である。そしてその「パリ博」でガレはジャポニズムを全面に押し出した。
今だ誰も見たことのない、目を見張るような作品を発表し、大喝采をあびたのである。

大量生産体制のガレ

当然のように注文は殺到する。ガレはその注文に応じてどんどん、あきれる位大量の作品を世に送り出した。
プロデューサーだからあたり前である。企業家であり芸術家なのだから自分の品が世間に流出してくれるのはうれしいに決まっている。
それにしてもガレは、「売れセン」が好きだった。それは、ガレが万博で大成功をおさめた5年後のことである。ガレは初めて自分の窯をナンシーに開いた。こんなに世間に認められながら、不思議にも彼は、48歳になるまでマイゼンタールなど他人様の窯で軒下を借りる形で作品を作り続けていたのである。

この頃から彼は、いきなり陶器に興味を示さなくなっている。陶器はガレが若い頃からいつくしみ作り続けてきた物だった。しかし陶器は、人気がなかったのである。人気のない物は彼にとって不要なのだろう。
陶器はその後、時々注文に応じて、思い出したように、かつて人気のあった日本猫の置物や、ライオンの燭台などをちまちま焼いているにすぎない。それに反してガラスは作った。目まぐるしく作った。ガレはガラスを通じてアールヌーボー、つまり新しい芸術の大衆化に本腰を入れはじめたのである。
今から50年も前の話だけれど、その頃パリの骨董オークションや蚤の市では、ズラリ並べたガレのガラスを「ここからここまでさぁいくら」と、まるでバナナのたたき売りのように販売されていたという話がある。まあ、それは多少誇張しているとしても、今のアンティークディーラーが聞いたらよだれを流すような語り草まである位、ガレの作品は世の中に流通したのである。

ここにモンテスキュー伯爵なる男が登場する。
彼は当時パリ社交界の中心的人物で、いろいろな芸術のパトロンだった。
詩人で芸術を庇護し、芸術家の才能を高く評価した素敵な紳士という説もあるし、男色家だったという説もある。またかなり嫉妬深かったという伝えられ方もしている。
それはまあどちらでも良いにしても、この伯爵はもちろんガレの大ファンで大パトロンだった。彼はあまりのガレの大量生産に対して「美学におしっこをさせるのはやめてくれ」と言ったという。これに応じてガレは、殊勝にも「心ならずも意に従います」と答えたとあるが、それはどうも言い逃れのようである。

ガレはその後もますます大量生産に精を出しているのである。モンテスキュー伯爵は、ガレの「芸術の大衆化」をある程度までは理解していた。しかしこれは結局、お金持ちの気まぐれな解釈でしかなかったのかもしれない。だから自分よりずっと貧しい一般大衆に、自分の大切なガレの作品を流出させることが「おしっこの垂れ流し」でしかなかったのだろう。
しかし、ガレの大量生産は本当におしっこのたれ流しだったのだろうか? 一般的にガレは、美術館などに出品する手の込んだすばらしい作品をつくるために、安い作品を大量に生産し、お金を得たと言われている。けれど、どうもそれが真実だとは思えないのである。

芸術の意味

当時の値段でガレの作品は、安い物だと40~50フランで買えたという。もちろん高いのは何千フランの単位で売買されているが、たいていは何百フランの単位である。スーツが30~40フランの時代である。銀行員の月給が70フラン位なのである。ちょっとがんばれば、一般大衆が新鋭の芸術家、エミール・ガレの作品を買うことができたのである。
美術館に鎮座しているガレの作品は確かに美しい。けれどガレはこれをつくりたいがために大量生産をしたのだろうか? どうも逆のような気がするのである。
鎮座する作品は、ガレという名を世間に広めるためのある意味では「売名」の作品で、本当に産み出したかったのは、安価な、誰でもが手に取ることのできる、ガレと名の付いた品ではなかったのだろうか?

ガレは25歳の頃、イギリスに滞在している。そしてこの時、アーツアンドクラフトの運動家、ウイリアムモリスに傾倒した。アーツアンドクラフト運動というのは簡単にいうと、産業革命で機械化されてしまった味気のない品々をもう一度職人の手に取りもどそう。芸術という、何だか普通の生活とは無縁のような存在に置いてありがたがっている物を、家具や食器やありとあらゆる日常に取り入れよう。芸術は全ての人のためにあるのだから。という運動だった。
ウイリアムモリスの運動はある意味頓挫したけれどその思想が源流となり、アールヌーボーの中に生き、引きつがれていったのである。

そしてエミール・ガレというアーツアンドクラフトに感銘した一人のプロデューサーは、まるで心臓から押し出された血液が毛細血管までも赤く染めるように、または根から吸収された大地の養分が葉の末端細胞にまで浸透するかのように、ガレという作品を、美を愛する全ての人々に行きわたらせたかった気がするのだ。
多くの人の心を楽しませることがその作品の価値を低下させるなんてことはない。芸術家がその企業や事業、または商売を大きくさせていけないはずもない。

1904年、9月23日、ガレは白血病でこの世を去った。
ガレが死んでも「エミール・ガレ商会」とか、「ガレ商会」とか、または「ガレ株式会社」として生まれ変わったりしてガレの銘の入った作品は、アールデコの時代をむかえても作り続けられた。そして工房が閉鎖した後も尚5年間、最後の在庫がなくなるまで、ガレはガレとして売られ続けた。
そして今でもガレは、手をふれることのできるアールヌーボーとして我々の身近にあり、芸術の何かを伝え続けてくれている。

中村

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