アンティーク考

アンティークの素材と歴史
ヴィクトリアン・ジュエリー ジェット


黒き宝石、ジェット


日本には「藍よりも青く」という言葉がある。これは限りなく青い、どこまでも青い。そんなあおい青を表している。
イギリスには「As black as Jet」という言葉がある。
「ジェットのように黒い」という意味である。
これは限りなく黒い、どこまでも黒い。そんなくろい黒を表している。
考えてみると、自然の素材でまっ黒の物体はあまり無い。

ましてやジュエリーの素材となるのと、思い浮かぶのはこのジェットの他にはオニキス、ブラックオパールくらいである。しかしブラックオパールはブラックとは名ばかりで、純然たる黒にはほど遠いし、それよりもこのブラックオパール自体1905年になって初めてオーストラリアで発見された宝石なのだから、ヴィクトリアン・ジュエリーに使えるはずもない。オニキスは、ジェットと肩を並べるほど黒いけれども、まぎれもなく石である。
ということは重い。その重いオニキスで3連の首飾りなど作った日には、肩はこる、首は痛い。
それに比べてこのジェット、とにかく軽い。
その怪しげに黒光りする重厚感に魅せられて手に取ってみると、ひょうし抜けするほど軽いのである。


ジェットに手彩陶板の入ったペンダントトップ


これはなるほど、ウエストをコルセットでぎゅうぎゅうに締め付けて、シルクのブラウスを着、クリノリンという膨らんだスカートでしゃなりと歩き、ちょっと何かあっただけでフワァと気絶して紳士の腕にしなだれかかり、気付け薬を嗅がされて、ハタハタ扇なんぞ使ったヴィクトリアのご婦人達の、お気に入りだったこともうなずける。


ヴィクトリア時代の彩色画


それでは、このジェットとは何ゾヤ、というと、実はこれ、流木の化石なのである。
えっ?ジェットは流木の化石??何やら抽象的でわけがわからない。そこでここでは、ジェットの壮大な誕生の歴史をご紹介することにした。

ジェットはこうして生まれた


ヴィクトリア時代のジェットのピアス


時はジュラ紀、1億8000万年前にさかのぼる。180年に100万をかけた昔である。
18にゼロが7個つく昔々。スピルバーグのジュラシックパークに出てきた恐竜達の全盛期である。このジュラ紀というのは、2億1200万年前から1億4300万年前までの時代を言う。つまり6900万年続いたのだから、地球の時というのは、考えただけでクラクラしてしまう。

そんな無限大みたいな時のむこうの昔々、大地は緑で埋め尽くされていた。
トカゲやイグアナを巨大化したような恐竜が、シダ類の中をはい回り、カメレオンのバケモノみたいなのが、目をキョトキョトさせている。
火を噴く火山を背景に、クチバシの長い怪鳥が、キーキーパタパタ飛んでいる。
(これはちょっと嘘かもしれない。なぜならこの時期に、空飛ぶ生き物が存在したかどうかは、まだ解明されていない)

そんな原始の景色の中に、木が生い茂っている。
モンキー・パズル・ツリーという杉に似た木である。
モンキー・パズル・ツリーとは、おもしろい名前だけれども、これは、サルが木登りしようと、ひょいっと一本の枝につかまってはみたけれど、「さて、次はどの枝につかまればいいの?枝が多すぎてわからない」と悩んでしまうほど枝が生い茂った木、という語源である。
大地にはそんな現在では存在しない木々が生えていた。
その木々がやがては死滅し、川や沼に落ち、海にも流れた。
水の中の木々は、やがて小片となり、水分を含み、水の底に沈んでいった。その時から、それらは何百万年の間、水の底にあって、ジェットとして生まれ出る日を待ちはじめたのである。

地球は生き物である。
大地は盛り上がり、沈み、噴火し、また沈み、盛り上がる。
やがて恐竜の時代が終わり、氷河期が来て、地は凍りつき、太陽がすべてを溶かしたかと思うとまた凍りつき、そしてまた太陽がふりそそぐ。
アメーバは分裂を繰り返し、やっと霊長類が生まれ、ようやく10万年前になって人類が生まれた。
古代のはじまりである。

その古代にはもう既にあの恐竜と共に生きていた木々たちは、圧迫と摩滅を繰り返し、化学変化をおこし、化石となり、ジェットという物体に生まれ変わって地の底にあり、ぬくぬくと息づきながら、いまやおそしと出番を待っていたのである。


古代からあったジェット


ジェットというとどうしても思い浮かべるのが、イギリスのヴィクトリアン・ジュエリーである。けれどジェットは、わずか数百年前まで息をひそめていたわけではない。人類がジェットを発見したのは、古代も古代、文明が生まれんとするその時なのである。

「ジェットは、人類が発見した、最も古い宝石」なのである。
もちろん、イギリス特有のものでもない。「大地のある所、すべて化石アリ」である。

わかっているだけでも、ロシア、ドイツ、フランス、スペイン、ポルトガル、北アメリカなど、世界中いたるところで出土している。

日本でも「うもれ木」という名で宮城県仙台市の特産品となって杖の持ち手、傘の柄、根付けなどに使われていたが、現在の生産はほとんどない。

最も古いとされている出土品は、石器時代、紀元前10,000年頃のもので、南ドイツとスイスで発見されている。それらは小さなお守りで、特にスイスで出土したものは、きれいな昆虫の幼虫の形をした彫刻である。


石器時代の幼虫の形をしたお守り


新石器時代のものは、フランスの遺跡から、骨や歯、コハクなどと一緒に出土した。

人間は神秘が大好きである。これだけ文明の進んだ今でも、神秘や怪奇が大好きなのだから、周りは全てありのままの自然で、やっと道具をあやつり、言葉をあやつりはじめた古代人にとって、あらゆるものは「神秘」である。神秘はやがて祈りになり呪術になり呪詛になり、人々は救いを求め、守り神を見つけようとする。ここで人は自分を守ってくれる“物” を求めはじめた。つまりお守りである。

ジェットはこのお守りに最適だった。軽くて堅く、何よりも怪しく黒光りするこの物体を魔よけとして身に付けはじめたのである。

他にもジェットは、薬としても重宝された。何しろ神がかり的な時代のこと。病気になったら「とりつかれた」ということになる。

この時代、病名だってそう種類があったわけじゃない。ちょっとひきつけを起こすとヒステリー、それが進んでバッタリ倒れるとてんかん。このヒステリーとてんかんに、ジェットを燃やして、その煙をかける、または吸飲すると治るとされた。

また、腺病という子どもの全身病にも効いたらしい。これには、ワックスを混ぜた。飲ませたのか塗ったのか、そこの所は不確かでわからないけれどとにかく治ったそうなのである。次に歯痛の治療。こちらはワインを混ぜていた。

また、人は他人や自然、あらゆる景色が見えるのに、不条理なことに一番見たい自分の顔だけは見えない。そこで鏡が欲しくなる。ここでも優れもののジェットの登場である。ジェットは、磨けば磨くほど、美しくなめらかになり、光を反射する。だから鏡としての機能も発揮したのである。

そして、時は流れて青銅器時代に入る。この時代のジェットは、イギリスで発見されている。北スコットランドとヨークシャー、ダービーシャーと次々に出てくる。

これらはすでに、きれいな三日月型のネックレスだったり、縞模様を入れてあったりした。こんな遠い昔から、人はジュエリーが大好きだったのだ。
これらの発見によって、4500年前のジュエリーの多様性までも知ることができたのである。

ここで、イギリスが出てきたついでに、どうしてジェットといえばイギリスと代表されるようになったのかを説明しておこう。
実は、話がずいぶん近代に近づくが、19世紀になって考古学者達はジェットという物体を、疑ったのである。

琥珀という物体は、かなり以前からその成分が解明されていた。琥珀は樹脂の化石である。そしてジェットは”Black Amber”つまり黒コハクと呼ばれていたが、はたしてこの透明感の無い軽い力タマリが、本当にコハクと同じような起源なのか、疑問だったので考古学者は検査を重ねた。

オイルを分析してみた。間違いなく樹脂を含むカタマリであった。燃やしてみた。石炭に近い臭いがする。顕微鏡で何度ものぞいてみた。考古学者達は、ジェットをできるかぎり薄片にしては、のぞき込んだのである。決定的であった。そこには木の年輪が、くっきりと浮かび上がっていたのだった。

そして、この時、もうひとつ重大な発見をしたのである。


2種類のジェット


外見は同じに見えても、ジェットには壊れやすいのと壊れにくいのがある。
考古学者達は、これも不思議だった。分析して、また検査、調査を繰り返した。
するとジェットには、ソフトジェットとハードジェットがあったのだ。

ソフトジェットは砕けやすい。熱を加えるとすぐに壊れてしまう。このソフトジェットは淡水から生まれた。それに対してハードジェットは、丈夫で耐久力がある。このハードジェットは海水がはぐくみ育てていたのだ。

そしてハードジェットの良質のものが、実はイギリスのヨークシャー地方、ウィットビイという所で大量に掘り出されたのである。

もっとも、ドイツやスペインでも、少量の質の良いハードジェットは出土しているが、ウィットビイの比ではない。なにしろ厚さ29mもあるジェットの岩が、ゴロゴロと掘り出されたのである。 だからヴィクトリア時代、ジェットのジュエリーや小物が次々と作り出されたとき、このヨークシャーのウィットビイに、ジェット工房が次々と生まれたのである。


横幅15㎝ある大ぶりのブローチ


突然であるが、実は筆者はアンティーク・ディーラーである。しかもあまりまじめに物事を探求していない、いいかげんなディーラーである。だから英語もむちゃくちゃあやふやである。そんなディーラーのはしくれでも、やはりヴィクトリアン・ジュエリーは買ったし、中でもジェットは大好きだった。しかし、ウィットビイという言葉は知らなかった。

「これジェットなの?」とたずねると、大英帝国のすかしたアンティーク・ディーラーは自慢げにうなずき「イエス、ウィットビィジェット」と答えたものである。それを筆者は長年の間「Yes,will be Jet」すなわち「ええ、ジェットだと思うわ」とか「ええ、ジェットのつもりよ」と答えたと解釈して、「なあんだ、大英帝国のアンティーク・ディーラーだって、いいかげんなものじゃないの」と思っていたのである。と話はそれてしまったが、そう大英帝国のディーラーが自慢げにうなずくくらい、ウィットビイ・ジェットというのは、良質の世界に誇るハードジェットなのである。


ローマ期のジェット


時代は、ローマ期へと入っていく。

紀元の前(BC)と後(AD)にまたがる時期である。クレオパトラやカエサルの時代。といっても、このローマ期は、イタリアはローマを中心として1000年以上も続くが、その最盛期には、南はアラビア半島、東はメソポタミア、そして北はブリテン島、すなわちイギリスまでその支配力を拡大したのである。

イギリスのおしゃれな観光地、バースにはローマ遺跡が昔の栄華を伝えている。

この時イギリスにいたローマの征服者達は、ヨークシャーで採れるジェットの美しさに感動を覚えた。

だからジュエリーや小物をすごい勢いで作った。リングを作り、ブレスレットを作り、髪飾り、ネックレスはもちろん、果てはさいころや短剣までも作った。

もとよりローマ帝国の人々は贅沢で知られている。

ローマ人のあの「嘔吐の習慣」は、ある哲学者をして「彼らは食べるために吐き、吐くために食べる」と言わせしめた。

だから宴会が大好きで、宴会にはおしゃれが付きもので、おしゃれにはジュエリーとくる。ジュエリーとくれば、金銀宝石に並んで、軽くて丈夫なジェットの登場となるわけである。

これらのローマ期のジェットの品は、イギリス各地で遺跡と共に発見されているが、その中に興味深い逸品がある。それは巧みに彫られたゴルゴンの頭である。ゴルゴンとは、ギリシャ神話で、見たものをすべて石に変えてしまう恐ろしい蛇の神様なのだが、これを彫った装飾品と、まるっきりそっくりのものがドイツのライン川の島で出土したのである。

この2つを検証してみた結果、ドイツで発見されたゴルゴンの頭は、疑う余地もなくイギリスのウィットビイのハードジェットと判明した。

ジェットは、ジュエリーの歴史だけでなくローマ時代のヨーロッパの交易までも教えてくれる。


ドイツで発見されたゴルゴンの頭

中世のジェット


次に入っていく時代は中世である。7世紀からこちらに約1000年、ひと口にどんな時代かと言ってしまうのは、とても語弊があるのだが、それでも無理して言ってしまうと、中世は宗教の時代である。
それは、なんだか聖なるイメージもあるのだけれど、それよりもどちらかといえば暗ぁい、陰うつな、ジメジメしたイメージが先行してしまう。

この時代を「暗黒時代」という言い方をされることもある。民衆の意志や希望を弾圧した封建制度の社会であった。
この暗ぁい中世に入り、イギリスからローマ軍が撤退すると、ジェットはみるみる忘れ去られた。もともとローマ人は、イギリス・ブリテン島に本格的な植民はしていなかったから、潮が引いたみたいにジェット愛好家もいなくなってしまった。

そして、残されたのは宗教の文化である。
ジェットはキリスト教、または異端の徒も含めて、宗教にかろうじて庇護されて、細々と生き残るのである。

ジュエリーとしては、あちこちに現れた聖職者たちの指と胸元を飾るだけの存在となった。ロザリオや指輪、クロスが、修道院の僧たちによって作られたのである。しかしそれも、ほんの短い間、少量つくられたにすぎない。ウィットビイの美術館には、14世紀にの小さなクロスが残っている。

中世の約1000年、この間、キリスト教だけが平和的に存在していたわけではない。教会の権力という不可解な力だけが一人歩きを始める。その権力がはびこりはじめると、その権力を得ようとする力が生まれ、また反対にアンダーグラウンドへともぐっていく異端も生まれる。そこには妖術が生まれ、悪魔学が生まれ、黒ミサなるものもあり、魔女狩りなるものまであった。
宗教裁判があり、異端者とされた人々は抑圧され、拷問を受け、火刑にもされた。犠牲にされたのは、罪もない、貧しく虐げられた女たちだった。これは、15世紀から17世紀頃まで続いた。

それはちょうど、イタリアで起こって全ヨーロッパに広まった、ルネッサンスの時期とダブっているからなんとも奇妙な話である。
こんな暗あい宗教の流れの中にあり、弾圧された民衆の側ではなく、権力を行使し、人の命を奪い続けた側の胸元にジェットはあった。
人の焼ける臭い、薪の焼ける煙がたちこめ、民衆が押し寄せる広場や、教会の高い窓からさす一条の光、その真ん中にあって、ジェットはやはり、あの不思議に怪しい光沢で、キラリと輝いてみせたのだろうか。

さて、所変わって、そして少々時をさかのぼって中世の初期。9世紀の頃、モロッコあたりから現れ出たムーア人という種族がいる。このイスラム教徒は、やがてスペイン、イベリア半島を征服し、地中海を攻撃した民族である。

この自分たちの宗教の優位性をかたくなに守り続けたムーア人には、おもしろい習慣があった。
スペインではジェットのことを、Azacheといい、これはムーア語で「黒い石」という意味である。この黒い石を、彼らは邪眼から守るものだと考えていた。そこで彼らは、ジェットで男根のカバーを作って自身の体にくっつけたのである。かくしてムーアの男たちの聖なる男根は悪霊の目から逃れられたのであった。

またまた所変わって、今度はアメリカ大陸。
もともとの住民であるインディアンの話である。

アメリカ南西部にブエブロ・インディアンという種族がいて、ジェットの愛好家だった。彼らは、トルコ石と貝をジェットに組み合わせてペンダントを作った。これらの多くはカエルの形をしていたらしい。インディアン・ジュエリーといえば、今でも銀にトルコ石だが、こんな昔からそれは使われていた。
世界各国のいたる所で、カエルは縁起が良いとされてそのデザインが使われている。きっと独創的なインディアンのこと、ユニークなカエル・ジュエリーだったことだろう。
もちろん、ヨーロッパ文明を笠に着たコロンブスを代表とする侵略者たちがやって来る前の話である。

さて、話をヨーロッパに戻すことにしよう。
中世の後半というと、思い浮かべるのがギルドの制度である。
ギルドとはつまり、同職団体の協同組合である。ギルド制度は初期には簡単な、まるで「となり組」みたいな存在だった。しかし、この制度というものがクセモノである。集団になった人々は、どうしてもこの制度を保守しようとしはじめる。すると、自由な競争は排除され、もうがんじがらめ。

このギルド制度に、ジェットはきっちりと組み込まれてしまった。
管理された組織の中で、新しい芸術や美の萌芽なんて望めるわけもない。

ギルドは時を追って細分化し、たとえば同じ工房で働いていても、親方さんと工芸師は別のギルドに属し、日雇い職人も別のギルドに属する。
穴掘り鉱山夫が、汗水たらしてせっかく掘り出したジェットのいいカタマリがあっても、親方が工芸師に渡す時に裁断してしまえば、そこに意志の疎通はなく、工芸師は与えられた既成のものしか作れない。
不自由この上ない。
共同の仕入れ、販売価格の協定、製品の品質や量の細かい規定。芸術はただ伝統を守るためだけに限定されてしまった。

もちろん、特定の個人が大金をつかんでしまわないよう、また、特定の個人が極度の貧困に陥る事のないように配慮されていたのだから、悪い面ばかりでもないけれど、話がそこまでいくと、自由主義がいいか、社会主義がいいか、はたまた共産主義はどうなのかという話になってしまう。

そんな中でも細々とジェットはイギリス、ドイツ、フランス、スペイン等で流通し、生産は続けられていった。14世紀から16世紀には、南ドイツで唐草模様のジェットの交易がかなりさかんだったという資料も残っている。
特にイギリスでは、昔から意識の根底に自由主義があって、他の国ほどがんじがらめの窮屈さはなかった。このため、初期エリザベス時代(1558~1603) の頃には、ジェットは宗教だけの存在から、ジュエリーとしてご婦人達の手に戻り広まりはじめていった。


産業革命とジェット


そしてむかえる時代が、18世紀から19世紀後半の産業革命の時代である。
ワットが蒸気機関を発明し、スティヴィンソンが機関車を走らせたあの時代、ウィットビイの工房に、びっくりするような機械が登場した。1800年頃のことである。


ジェットの細工に使われた旋盤


この万能機械が「旋盤」である。それまでは、掘り出されたジェットのカタマリを、あっちを彫り、こっちを削りしていたものを旋盤は一挙に片づけてしまった。
大きなカタマリの切断、細かなビーズの穴あけ等々、この作業に工芸師たちは、どんなに泣かされてきたことだろう。それが、いとも簡単なのである。ブローチのピンを取り付ける穴、お手のものである。ネジ切りだってなんだってこなしてしまう。おまけに、表面の磨き上げだってやってくれる。
この魔法の手のような旋盤の登場によって、ウィットビイのジェットは、一つの巨大な産業にまでのし上がるのである。

時代はどんどん動いていた。何しろ産業革命である。イギリスが「世界の工場」として君臨し「太陽の沈まない国」と豪語していたころのことである。
ウィットビイのジェットが、産業革命の影響を受けたのは、旋盤の導入だけではない。言わずと知れた蒸気機関である。
もちろんこれは、他のあらゆる産業の発展に拍車をかけた。それまでは動力といえば水力にたより、工場というものは川に近い辺境の山間にへばりついていたけれど、蒸気があればその必要もない。工業地帯はどんどん平地に進出する。

紡績機・織物の機械はほとんど木製の機械だったけれど鉄製に取って代わる。鉄の加工にしたって、木炭を使っていたから森林の近くでなくては成り立たなかったが、それが石炭に代わり、シュッシュポッポと走る蒸気機関車が運んでくれる。今の我々には当たり前になっている交通手段というのは、すごい比重で産業と関わっているのである。

物が動く、人が動く。人力や馬力とは雲泥の差である。船だって波まかせ風まかせとは大違い。
スティヴィンソンは、1825年に世界初の蒸気機関車を試運転させて、世の人々をあっといわせたけれど、1830年にはもう、マンチェスターとリバプールの間に鉄道が通したのである。1830年といえば、日本は徳川様の世の中。吉田松陰が長州の片田舎で産声を上げたのがちょうどこの年である。


1830年にリヴァプール~ マンチェスター間で試運転に成功した「ロケット」号


ちなみに、日本の新橋・横浜間に最初の鉄道が敷かれたのは1872年、実に半世紀近くも後のことになる。
一方イギリスでは、これ以降、あっという間に技術が進み、わずか20年後にはほとんどの鉄道網が完備されていた。
これによってイギリスは、都市と地方の物価や生活水準の格差も少なくなっていった。

産業が豊かになってきたのだから、人のフトコロ具合も豊かになる。
そこで沸き上がる欲望は、ほかの地に行ってみたい。見たこともない海を見てみたい。山にだって行ってみたい。行ったからには、お土産のひとつも買ってみたい。

「ヨークシャーの辺りがいいらしいわよ。海岸地方に行ったら、ついでにウィットビイというところに寄ってみなさいな。素敵なジュエリーが買えるから」
「これ、ジェットって言うのよ。何でも木の化石ですって。最近のファッションは絶対クリノリン(鯨の骨を枠にして、スカートを膨らませるためのペチコートが付いた、当時流行の釣鐘型スカート)じゃない。このドレスにぴったりなの。これはウィットビイの工芸大賞をとった職人が3日3晩眠りもせずに作ったんですって」
ということになってくる。

また、イギリス人が大好きな教会巡り。ここでも教会のお土産としてひっぱりだこ。これはウィットビイ周辺だけにとどまらず、ウィットビイで生産され、各教会に送り出された。
教会の全景が手彫りで入っている。ありがたい言葉まで彫ってある。1cm×2cmくらいと小ぶりで、聖書の形をしたものが多い。ロケットになっているものや、そのロケットの中に教会の絵が入っているものもある。後期には、ミニチュアのポストカードが何枚か連なって、それが折りたたんで入っているのも出てきた。


お土産としてつくられた聖書の形をした
ペンダントトップ


ヴィクトリア時代のジェット


気が付けば、世はヴィクトリアンの時代に入っている。
4代に渡ってジョージを名乗った前国王の時代、王室はあまりパッとしなかった。
三世は偏屈で、老いてからは狂人同様になってしまったし、四世も好色、不格好ときている。これじゃあ国民は、お気に召さない。

しかし、今度の女王はちょっと違う。イギリス国民は、どうも女王様が大好きなのである。女王の時代には、国が栄えるとも言われ、そしてイギリスの御婦人たちは、この女王様のマネが大好きなのである。

1837年、弱冠18歳で即位した可憐なヴィクトリア女王。
内輪もめと嫉妬のうず巻く王室の中、世間からも隔離され、子どもの目から見れば矛盾だらけの環境で育ったわりには素直なできの良い子だった。
ドイツ人の質素で厳格な女性が母だったから、派手好きではなかったけれど、それでも、ジュエリーだけには目がなかった。金、銀、パール、ダイアモンドに加え当然ジェットもお気に入りだった。

豊かになった国民も、女王に習ってジュエリーが大好きになっていく。
1840年、うら若き女王は恋に落ち、めでたく結婚と相成った。
相手はドイツの貴公子、アルバート公である。

ヴィクトリア女王は、自分のお婿さんをとっても愛した。このお婿さんが美男子で格好いい。スタイル抜群で頭もきれた。
当初、世間も王室も、異国からの闖入者に眉をひそめていた。だから国事には一切タッチさせまいとした。
しかしこのお婿さんは、一枚上手だった。女王を引き立たせ、自分は影となり、女王に助言し国事を助けた。でしゃばらず、かといって、卑屈でもない。女王もお婿さんも、お互いの立場を尊重し毅然としている。まさに夫婦の鏡、愛のなせるワザである。

そうこうするうちに、女王様も愛しいアルバートが横にいてくれなくては、「言葉ひとつ発するのも不安だわ」と思うほどの存在になっていた。
ジョージアンの時代、王室は男女関係がぐちゃぐちゃし、スキャンダルは入り乱れ、国民はその乱倫ぶりに辟易していた。けれどこの女王のお婿さんは、浮気のひとつもしない。なんて仲むつまじい。結婚して、ますます女ざかりに磨きがかかり女王様はとっても素敵。

時代は華やかで経済は安定。こっちじゃダンスパーティー、あっちじゃ晩餐会。女たちの綺麗な衣装はひらひらと舞う。ジュエリーは必要不可欠である。
そんな中でジェットは、1851年と1854年に、それぞれの工芸博覧会で注目を集めた。

ババリア(バイエルン。西ドイツの南部)の女王様からは、長さ1m93㎝のチェーンの注文を受け、フランス皇后からは、ブレスレットの注文も来た。
ジェットは、ジュエリーとしての地位を不動のものとしていったのである。
1850年にはすでに、当時はまだ珍しかったコマーシャリズムにまで載せている。


どんぐり模様のブレスレット

ヴィクトリア時代の典型的なネックレス

貝の形のブローチとピアス

葉をモチーフにしたブローチ

イニシャルを彫り込んだブレスレット

裏に細い鉄の金具の付いたブローチ

どんくりの盛り上がりがユニークなブローチ

貝の形のブローチとピアス

葉をモチーフにしたブローチ

木の枝がモチーフのブローチ

しかし迎える1861年。女王様にとって天変地異にも匹敵する大事件がおこった。
ヴィクトリア女王の愛する婿さん、アルバートが死んだのである。
女王の悲しみは、そりゃあもう筆舌に尽くし難い。忘我状態である。ノイローゼになり、半狂乱になる。

「私の人生は終わった。住んでいた世界は消えた」

彼女は悲嘆のどん底で、そんなふうに考えた。そして、「1日も早く夫のもとに行けるよう」祈ったのである。
この時から、彼女の長い喪に服する生活が始まった。
女王様が、こんな絶望の只中にいるのに、国民が浮かれはしゃぐなんてめっそうもない。イギリス中、喪づくし黒づくし。
王家の奉公人達は1年間、喪服着でなければ公の場に出る間ことも許されなかった。また、左腕の黒いクレープ地で作った喪章などは、1869年まで8年もの間着帯が義務づけられたのである。

大葬の時がやってくる。その沈殿した空気の中、苦悩の寡婦となった女王はフト、ふっつりと小さなあぶくのように浮きあがる、ひとつの欲望を感じた。

「ああ、ジュエリーが付けたい」

いくら悲嘆の中にいようとも、そこは女の本能というやつで、この欲望だけは押さえがたい。彼女は、シルクのハンカチでクスンと鼻をかみながら考えた。

「そうだ、ジェットがある」

街は黒一色。女性の帽子には黒い駝鳥の羽、男性の山高帽にはクレープ地の黒いリボン。馬にまで黒い羽根が付けられ、便箋や封筒までもが黒枠である。そんな、あらゆる物が真っ黒な中、黒いジェットが脚光をあびた。

「女王様が付けてらっしゃるんですもの、私も」
「じゃあ私も付けなくちゃ」

と、ジェットは行き交う女性たちの首にかけられ、胸を飾ったのである。そしてそれが、くどいようだが軽いから、シルクのブラウスに重宝し、フワッと膨らんだクリノリンのスカートに似合ったのである。そして、この時以降の約10年、ジェットは爆発的人気を得たのである。


ウィットビイのジェットショップ/1890年ウィットビイの教会の前でおみやげ用にジェットを売る露天商


ウィットビイでは、いくら産業革命後有名になったといっても、1832年当時には、2軒の工房が25人を雇っているに過ぎなかった。それが、アルバート公の死後10年余り過ぎた1872年には、200軒の工房及び店が1500人の工芸師たちや店員を雇い入れるまでに成長していたのである。
この年工芸師たちは、1週間に3~4ポンドの収入を得ていた。これは年収にすると約150~200ホンドということになる。

イギリスは昔から、伝統的な階級社会である。
この当時、全人口に占める上流階級の割合は、約2~3%。中流階級は約20%で、その残りはみんな下層階級。つまり約77~78% の人々は額に汗する労働者だった。
ウィットビイ・ジェットの産業に従事する工芸師たちも、もちろんこの下層階級に属するが、当時の下層階級の週給は23~30シリング。この頃の単位は、1ポンドが20シリングだったから、年収にすると57~78ポンドが平均なのである。つまりジェットの工芸師たちは、一般労働者の3倍から4倍の収入を得ていたことになる。

たった2~3% の支配階級が年収1,000ポンド以上も得ていたのは問題にならないとしても、約20% の中流階級の平均的収入は約300ポンド、下っ端の中流階級となると100ポンド程度だったのである。ということは? おや? ウィットビイのジェット工芸師の方が高給取りということになってくるのだ。

この頃の中流階級といえば、例えば工場経営者や銀行家、貿易商や農業経営者である。また、弁護士や医師、将校クラスの軍人や専門職の面々もいた。もちろん中流の中にも、いろんなお方がいたけれど、それにしたって特権階級には違いない。


腕にからまる蛇の形のブレスレット

陶板の入ったペンダントトップ

イギリスだって、お婿さん一人が亡くなったからといって、いつまでも悲しみに暮れているわけにもいかない。天下無敵の大英帝国の産業も、少々軋みが出、ヒビ割れが目立ちはじめていた。それに、うかうかしていると、ドイツやアメリカが虎視耽々と産業国世界一の座を狙っている。1873年には大不況。インドは大乱を巻き起こし、その是非は別としても、ヴィクトリア女王は、気が付けばインドの皇帝となり冠を頂いている存在だ。

おまけに、種々雑多な思想や主張も巷にあふれる。社会福祉もどうにかしなければ、国民はもう黙っちゃいない。労働法は改正を迫られる。総選挙だってある。

ヴィクトリア女王にしても、いつまでも時勢を無視し続けるわけのもいかなくなった。それまで引きこもりがちだった女王様も、「そろそろ公の場に出なくては」と重い腰をあげた。ちょうどその頃が、即位50周年祭である。アルバート公の死去から25年が過ぎ去り、女王はかなりの肥満体になっていた。もともと身長150㎝の小柄な女性だったから、体型的には「素敵」とはいえなくなっていたが、その分貫禄においては誰にも引けを取らない。


即位した頃と晩年の頃のヴィクトリア女王


それは、久しぶりの華やかな式典だった。

女王の冠や胸元、指にも腕にもジュエリーが輝いていた。しかしそこにはもう、ジェットの姿はなかった。女王が暗たんたる気持ちで公の場にも顔を出さず、亡きアルバート公の記念碑や像を建てまくって金を浪費し、また、長い隠遁生活に逃避して国事に背を向けていた間、民衆の女王に対する不満は高まる一方だった。

しかし、やっぱり女王様が大好きなイギリス国民。ヴィクトリア女王が顔を見せるや否や熱狂して万歳の声は高らか響き渡った。
万歳はいいけれど、「私の立場はどうしてくれるのよ」とジェットは言いたかったに違いない。
ジェットはもう、無用の長物だったのである。
それからジェットは、たちまち時代に取り残されはじめた。沸き上がってくるウーマン・リブの風潮に、女性たちのドレスは軽くな、平らになった。ジェットはもう似合わない。

最後の一撃は、アールヌーボーの出現である。
あの流れるラインは、ジェットではとうてい彫れないし強度も足りない。
ジェットは、完全に置いてきぼりをくらったのである。
ウィットビイ産業の繁栄の頃に、1500人いた従業者は、1921年には40人になっていた。

時代はどんどん軍事色に染まってキナ臭い。手工業は機械工業に取って代わられた。
そして次に来たのは、アールデコである。
このとき一瞬、ウィットビイの工芸師たちは、淡い期待を持った。なぜなら、アールデコの基本色は黒と白、それに形も直線である。

しかし、そう簡単にはいかなかった。アールデコ期の女性たちは、シルクを脱ぎ捨て綿を着た。また、そろそろ普及しはじめた化繊を着た。つまり、ジュエリーが軽い必要はなかったのである。
アールデコ期の黒は、あの重いオニキスの黒だったのである。
それに大量に産出されるベークライト、プラスチック。機械がひと作動するだけで、ガッチャンガッチャン作り出せる。

1936年、ウィットビイには5人の従業者しか残っていなかった。
彼らは細々と、復活祭用の土産物の小物を作るにすぎなかだけだった。そして1958年、最後の熟練工が亡くなり、それと共にジェットの長い歴史も幕を閉じたのである。

最後に、現在イギリス中で10人ほどの人達が、モダンジェットとして、ジェットを見直し、工房を開いて工芸品を作りはじめている。彼らが草分けとなって、いつかまた、ジェットが脚光を浴びる日が来るのかもしれない。地球から、ジュラ期の地層が消え去ったわけでもなく、ジェットは今もぬくぬくと地の底にあって、出番をずっと待ち続けているのだから。


中村 みゆき